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愛と慈悲


 前コラムで述べたとおり、人間にとってのこの世に生まれてきた目的は、人々(一切衆生)を救うこと、即ち「慈悲」こそが生きる目的だと述べました。もちろんこの話はすべて青山の創作です。慈悲については、「慈悲とは 最高の真理」を参照ください。

慈悲とは何か
 相手がしてほしいと思っていることを、何でもしてあげるのが慈悲だと思ったら大間違い。それはアルコール依存症の人間に酒を出すのと同じです。
世間ではよく、「自分のためではなく、人のために」と言われます。この”人のため”とか”世の中のため”っていったい何のことを言っているのでしょうか?単なる経済的利益の事を言っているようです。それはただの「自分一人が欲張っては駄目」と言っているのと同じです。こんな下らないこと(単なる金儲けの話)が本当の幸福なのでしょうか?嘘ですよね。こんな物質的幸福、金銭的幸福なんかが、幸福なわけありません。(もしそれが本当なら、銀行強盗でもして、捕まらない方法でも考えたら)
あるいはまた、人に何かをしてあげるにしても本当に相手が幸せになることが重要です。単なる幸せになったような気分だけでは、本当の幸福とは言えません。
幸福とは、(観測される)現実の状態がどうであるか、幸福という状態が(客観的な事象として)本人によって確認されているか。これがポイントです。
究極的に言えば、「慈悲」とは、相手を、真理を悟った者、即ち理想的な人間である「仏陀」に導くことです。仏教では「慈悲」を最も重要視します。キリスト教の「隣人愛」に似ていますが異なります。
慈悲で重要なポイントは、相手が誰であろうと(人を選ばず、すべての人、否、すべての生きとし生けるものに)慈悲を施すこと。もし一部の人間(自分の好みで人を選択)にしか慈悲を掛けない。あるいは多くの人間には慈悲を掛けるが、一部の最悪の悪人には慈悲を掛けない。というなら、あなたは慈悲の精神、意味が解っていません。故に、誰一人として慈悲など掛けない方がましです。慈悲とはそういうものです。

愛と慈悲の違い 愛は悪いもの
 仏教では、愛は他者及び自己に対する執着を意味し、「煩悩」から来る汚れた欲望です。執着があるから人間は苦しむのです。つまり(自分でも他人でも)対象を愛するから苦しむ。例えば愛するものを失うことにより苦(愛別離苦)が生じるでしょう。何も愛さなければ苦しみもありません。
さて、煩悩とは何でしょうか?それは人間もやはり動物であるということ。その動物としての”本能”が仏教でいう「煩悩」です。動物は生きていくために、様々な欲望を備えています。食欲、性欲、生存欲(死にたくないという欲、そこから逃走欲(危険から逃れる。天敵から逃れる)が生じます)。またそれらを人間に当てはめたときの、金銭欲、名誉欲、社会的承認欲(周りから認められたい)。これらはすべて煩悩による動物としての本能的な欲です。浅ましいと思いませんか?人間たるものこのような状態で良いのでしょう?智慧を発揮して、正しく世界を見極め、適正な行動をとってこそ人間です。
愛も当然この煩悩(動物としての本能)から起こります。それは外部に対する執着というかたちで現れます。異性への愛。子供への愛(子煩悩)、お金への愛、そして地位(社長の椅子)・名誉への愛。みな仏教では一番悪いものです。ただ、この本能的欲(食欲、性欲、生存欲)がなければ人間も例外なく生き残れません。ただし、生き残ることが重要なのではない。動物ならそれでもいいかもしれない。しかし人間には智慧がある。生き残ること自身が無意味であることを悟る。なぜなら、すべてのものは死ぬのであるから、結局生き残ることは不可能。
「愛」というと人々は素晴らしいものと理解していますが、仏教ではまったく正反対。愛は”直ちに捨てよ”と教えています。世間ではやっている「歌謡曲」の歌詞、盛んに「愛だの恋だの」歌われていますが、それを読めば、愛がいかに浅ましく穢れたものであるかが解かるでしょう。愛を素晴らしいと思うことは、つまり仏法を知らないか、「愛」について誤解しているのです。
よく愛には二つあって、「奪う愛」はいけない。「与える愛」は良い。という教えもありますが、本質的には同じです。すべては執着なのです。どんな「愛」も苦の原因です。「善い愛」も「悪い愛」もありません。(補足1) 少なくとも仏教の生き方を学ぶなら、間違っても「愛は尊い」なんて言えませんね。

愛の原因
 愛の原因は「煩悩」です。仏教では「渇愛」(喉が渇き水を求めるがごとき愛する)、「貪愛」(貪り求めるように愛する)とか言われ、苦の根本原因になっています。愛は本来誰もが心の中に持つ煩悩の一種です。(図72「十二因縁」参照。)
煩悩であるからそれを完全に消し去ることができるのは死ぬ時です。煩悩はこの世で生きている人間の本質というべきものであり、智慧(世界の本質を知ること)によって煩悩を抑制することはできても、全く消し去ることは生きている限り出来ません。従って生きている間、人は愛欲に苦しめられるのです。
しかし愛(隣人と関わろうとする心)がなければ慈悲もありません。慈悲とは相手を救いたいという気持ち。これも一種の欲です。つまり慈悲の本質は煩悩なんです。つまり慈悲は何と、「愛」から生まれるのです。
慈悲と愛はどういう関係かというと、慈悲とは、”愛”+”智慧”です。智慧は、世界を正しく認識して、その本質(真理)を見極めること。その本質を知り、その「法」(宇宙の法則)に従って行動すれば、人間は幸福を得られるというもの。すなわち智慧とは「科学」のことなんです。この科学的姿勢がなければ、相手を本当に幸福には出来ないというもの。この智慧が欠ければ、結果的に相手を不幸にしてしまう可能性あり。と言うわけです。
煩悩というと悪いイメージですが、何と慈悲の根底にあるもの。即ち人間の本質だったのです。即ち「煩悩」があるからこそ生きている人間と言えるのです。煩悩はもちろん「苦」の原因ですが、我々はそれを消滅させるのではなく(死なない限りそれは不可能)、制御することにより、苦を最小限に抑える。且つ人々を幸福にさせることによって、自分自身が喜びを得る。そのためには、本来の「愛」だけではなく智慧(科学的実践)が必要だということです。すなわち「慈悲」とは、本来持っている愛(人間(一切衆生)の本質だから誰にも備わっている)を智慧によって制御することです。慈悲の目的は相手を真の幸福な状態に導くことと言えます。

隣人愛とは
 キリスト教の「隣人愛」は、神が人間を愛するように隣人を愛することです。神から与えられた愛を隣人に振り向けることです。
「隣人」とは誰のことでしょうか?それは聖書「善きサマリア人のたとえ 」(ルカの福音書)で語られています。(補足2)
「隣人」とは今あなたが何かをしてあげられる人のことです。自分の好みで、「この人」と「この人」という具合に、あらかじめ特定の人物を選定するのではありません。あなたの都合で選ぶものではない。つまり家族や親しい友人だけが「隣人」ではないのです。
もしあなたが戦場にいて、目の前で敵があなたに銃口を向けていたとしたら、この敵兵士が今のあなたにとっての「隣人」です。なぜなら今あなたが、その兵士に何かをしてあげられるからです。その時点であなたは家族や親しい友人とは関わっていません。関わっている唯一の人間は、目の前の敵兵なのです。イエスの「敵を愛せよ」という意味が分かりましたか?
・隣人というのはある特定の固定された人間ではなく、状況状況で変化するものです。昨日はAさんが隣人。今日はBさんが隣人。あるいは、昨日は自分の子供が隣人。今日は母親が隣人。このように誰もがあなたにとって隣人になるのです。つまりたった一人の隣人とは、世界中の人。否、この宇宙のすべての衆生(生きとし生けるもの)を指すのです。一人の隣人を救うということは、すなわち全世界の人間(宇宙の全存在)を一人残らず救うのに等しいのです。お解りですか?だから、世界中の人間をすべて救う。たった一人でも救えなければ、自分の満足はない。
では、次に「隣人愛」の特長について述べます。
・隣人愛とは、それによって何か(利益)を得るのではなく、無条件の愛、無償の愛です。
つまり見返りは一切ありません。見返りを期待する愛なんか「愛」とは呼べません。隣人つまり相手も選べません。神の愛はまさにそういうものです。もちろん仏教の慈悲とは異なります。(ここにはまだ智慧がない)
相手にほめられたい。好かれたい。社会から注目されたい。これらはみな「自己愛」です。自分に対する愛です。単に自分の欲望を満足させているだけです。そんなものは「愛」とは言えません。
・愛の本質は他者への愛であり、自分を愛することはできない。
自分を愛することを「自己愛」といい、それは妄想の愛です。これは多くの人が誤解しています。人間は自分自身を愛することは決してできないのです。それを自分と見て愛しているのは実は想念によって作り出された実体のない単なる虚像なのです。つまり幻影を何か実体と勘違いして愛しているだけなのです。自分と隣人の区別もつかず、ただ己の愚かな煩悩に使役された、無いものを愛しているに過ぎないのです。
この愚は自己と他者の区別がつかないために起こるのです。前にも話しましたが(「自己とは、世界とは」および「自己と世界」参照)、自分は決して観察されないもの。なぜなら自分とは観察する主体だからです。自身が自身を観察することは原理的に不可能です。(補足3) 観察されているのは世界(外部)です。その世界に主体として存在するのが「隣人」です。※世界には自分と隣人の二人しか存在しない。
例えば、会ったこともない人物に対して、愛しいと思う。相手の実体がないのに相手が存在すると思って、愛しいと思う。これは結局自己愛であり、よくアイドルタレントなどを恋しいと思う気持ちと同じです。そこに相手の人格などない。なぜなら相手との対等なコミュニケーションがないから。まさに偶像(=アイドル)を愛しているのです。(補足4)
愛する対象は(自分ではなく)他者しかない。そこで相手の人格を認めて、相手に真の幸福と智慧を授けること、これが慈悲です。
・自分の命を惜しむなら、それは愛とは言えない
これは慈悲にも通じますが、相手を救う、隣人を幸福に導く、そのためにはもちろん命を惜しんでいては駄目です。自分の命を惜しんでいるようでは本当の愛とはとても言えません。自分は当然相手のために死ぬ覚悟が必要です。人間はこの世に生まれてきた以上、何かのために死ななければならないのです。それは一人の隣人を幸福にするためです。
・愛は強引、慈悲は相手の主体性を尊重する
愛する人を救いたいなら、時には力を持って炎の中から強引にひっぱり出す。相手に有無を言わさず無理やり掬い取る荒手のやり方も必要かもしれません。自分は死んでも相手を幸せにするためには、何が何でも救いたいという情熱を発揮するのです。ただし、それはあくまで自分の欲望の働きです。つまり相手を救いたいというのも欲です。いいじゃないですか。人間は生きている限り欲に身を任せることも必要です。ただ、下らない欲でなければ。
それに対して慈悲は、あくまでこちらは他人へ働きかけを行うだけ。それに伴い行動するかしないかは相手の意志に任せる。相手が自ら幸せをつかもう、そのために行動しようとする気が起きるまで、こちらはひたすら働き続ける。つまり相手の自主性をあくまでも尊重する姿勢です。
ただし、絶対に勘違いしないでください。他者に対する慈悲や愛はあくまで”自分の幸せ”のためなのだと。つまり相手に対する「救い」は自分の”エゴ”ということを認識してください。人を救いたいという気持ちは、動物としての本能に根ざしています。(これを利他行動という。つまりこれも自然淘汰の産物) こういう救済の精神すら”エゴ”なんだと自覚し、私利私欲ではないという思い上がった考えは捨て去るべきです。人々を救う。世の中を救う。あたかも自分が「救世主」になったような感覚に囚われている人間(特に新興宗教の教祖に多い?)は、単に悪魔に魅入られているだけなのです。自分は選ばれた人間。神からご加護を与えられた。と思うこと自体、狂っている証拠。(神なんか存在しない) ただし、自分のエゴから生まれたこの救済の精神は必ずしも悪ではない。あくまで自分のエゴと自覚した上で、それを単に抑制せず、推し進めていくことも人生においては必要です。
人間は決して神ではありません。釈迦やイエスであっても生身の人間です。人間はまず自分の幸せを求めるのです。(それに対して神は絶対的幸福を既に得ているため、自分がこれ以上幸せになる必要はない) そしてその自分の幸福を求めてはいけないということはないのです。ただし、何が自分にとって本当の幸福なのかは今一度問い直してみてもいいでしょう。

究極の慈悲
 「慈」と「悲」は意味が異なります。「慈」とは相手に対して慈しみの心(菩薩の顔、あくまで優しくすべてを受けて入れる姿勢)を持つこと。「悲」とは相手に対して悲しみの心(明王の顔、相手のためにあえて厳しい姿を現すもの)を持つこと。ただし、両方とも苦しんでいる相手を救うことを意味します。共に自らの命を捨てる覚悟がなければなりません。中途半端な慈悲では駄目です。また相手によって慈悲を掛ける掛けないなどあってはならないのです。
慈悲を発揮することは難しくはない。命を捨てる覚悟と智慧(冷静に考える)さえあれば実現できます。あなたにもその気があれば(愛する人がいるならば)無論実行できます。
さて、ここからは危険な思想とみなされますから、誤った理解をされると怖ろしいことになります。あくまで慈悲は現実を直視して、科学的に事を為す姿勢が必要です。これから述べることは極論ですが、人間ならばその姿勢(科学的態度)を持って自分の行動として判断するでしょう。
では、この慈悲の究極の形とは何か?
究極の「慈」とは、相手(隣人)に自分を殺させて、その瞬間悟らせること。究極の「悲」とは、相手(隣人)を死に至らしめて、その瞬間悟らせること。
「慈」と「悲」は違います。ある意味正反対です。言ってみれば「慈」とは母の愛です。「悲」とは父の愛です。
究極の「悲」とは人を殺してもいいと解釈されます。実際そうなのです。死に至らしめるとは、場合によっては相手が死んでしまうこともありえるということなのです。単なる脅しや偽死ではない。そんな甘いことでは相手は救えません。人間は死を味わうときにこそ悟るのです。
しかしこれはとても危険な考え方です。何しろ(慈悲のためなら)人を殺しても許されるという勝手な解釈が成り立つからです。これは歴史的にも宗教がもたらす弊害として、カルト宗教、洗脳宗教、テロリズム宗教、例のオウムのように、テロを起こすのも”慈悲のため”と言う誤った解釈に陥る可能性あり。(人間が宗教を狂わすのではなく、宗教が人間を狂わすから怖ろしいのです。その話はまた別途)
さらに宗教じゃなくても本質はまったく同じである独裁政治、ファシズム、ヒトラーに率いられたナチイズムなどみんなそうです。勝手な解釈で大衆を不幸に陥れても、国のため、民衆のためなどと言います。
ここでいう慈悲は権威・権力とは正反対。本来の「慈悲」は、自分が死ぬ覚悟がなければ駄目です。そして相手は大衆(あるいは複数の弟子たち)ではありません。あくまで(たった)一人の人間です。(補足5)
そして慈悲を施したと同時に自分は死ぬのです。
さらに本当に相手が幸福にならなければすべては無駄です。それは単なる自己の情熱の犠牲者(自分も相手も)です。真に相手を幸福にさせる唯一の手段は科学です。

究極の愛
 究極の愛とは、隣人の幸福のために自分は次の瞬間死ぬことを覚悟しつつ、情熱を持って相手のために尽くすことです。自分の(相手を救いたいという)欲のために一切を(運命に)任すこと。その姿勢こそが究極の愛です。そしてその見返りは一切ない。あなたはそのまま地獄へ赴くのです。それがあなたの本望です。目的です。
イスラムの教えのように”聖戦”により神のために死んだ者は天国へ行ける?死んで天国へ行きたいなどという甘い考え方です。死ねば地獄へ行くだけです。なぜなら神など存在しない。神のために死ぬことはできない。できるのは隣人のため、敵のためである。だから地獄へ行くことが分かっていながら愛のために死ぬ。
本当の愛の実践者は、天国などに赴くことを望まない。彼らはみな地獄へ行くことを願う。なぜなら地獄にこそ救いがたき多くの者がいるからです。
「愛の実践者」を称して、「自ら地獄へ赴く者」と言う。自ら地獄へ赴く。その覚悟がない人間には”究極の愛”など実践できません。愛は「苦しみ」を生みます。しかし「愛の実践者」はあえて苦しみを受けるのです。人を救うためなら、自分の苦しみなんか何のそのです。

人を愛する
 自分の命を惜しむくらいなら、そんなものは「愛」とは言えません。その人のためなら死んでもいいと思う覚悟がなければならない。それは人間として当然のことです。さらにもし、その隣人を幸福にするためなら、全世界を敵に回す覚悟が必要です。自分はたった一人で世界に立ち向かわなければならない。愛する人のために。
世界が相手じゃ勝ち目はない。戦わずに逃げよう。もしそう思ったら、人なんか愛さない方がましです。勝てなくてもいいのです。愛する者のために例え一人でも戦う。命を捨てて戦う。それが人間です。結果など関係ない。いずれにしてもあなたは死ぬのだから。
愛は一方的なものです。こちらが愛した分も愛されないどころか、見向きもされない。そんなことは問題ではない。相手は自分の存在すら知らないが、こちらはただひたすらその人のために死ぬ覚悟で愛し続ける。相手は最後まで気づかないが、相手が幸せになればそれでこちらは満足。見返りを求めるものなど本当の愛ではありません。

あなたは最強
 この世で最も自分を強くするもの。モチベーション(やる気)を高めるもの。それは「他者に対する慈悲」です。単なる自己愛による相手に勝ちたいという競争心。「あいつには負けたくない」、「俺は一番になってみせる」という執念なんか、はっきり言ってゴミです。そんなものよりも遥かに強いパワーを生むもの。それこそが隣人に対する「慈悲」なのです。自己の闘争心よりも何万倍、何億倍、あるいは何兆倍も強力です。まさに無敵です。そのパワーを手にすれば全世界を相手にしても必ず勝てます。なぜなら愛する人のために命を掛けることができるから。それほど隣人に対する「慈悲心」、あるいは「愛」は強いのです。人間は自身に対する愛着よりも、他人に向ける「愛」の方が強い。つまり、その動機が「自分の幸せのため」よりも「愛する人の幸せのため」の方が遥かに強力な力を発揮できるわけです。たった一人の愛する人を得て、あなたは”宇宙最強”になれるのです。この「隣人愛」こそは人間の本質と言えます。そのためには人を愛しましょう。愛する人を得ましょう。
この「愛」さえあれば、あなたは何も恐れる必要はありません。この「愛」は人間の動物的本能から生まれる欲望(金や名誉)ではありません。「煩悩」を遥かに超えたものです。だからあなたは最強です。あなたの純粋な気持ちの現れであるこの「愛」から、最高の勇気と最大の忍耐が得られるのです。隣人の幸せのためなら、どんな苦しみにも耐えていくことができるのです。あるいは全世界を変えることも可能です。

世界を変える
 つまり隣人に向けられた「愛」は最強なんです。人を愛する気持ちさえあれば、(自分の幸せではなく)人の幸せを願う気持ちさえあれば、命を掛ける覚悟さえあれば、人間は世界を変えることができるのです。それだけのパワーを「愛」から得られるのです。
この世は「空」です。世界は無意味です。だから何事も自由です。何者からも制約は受けません。あなたは無限の自由を手にしているのです。その自由を手に、愛とパワーをもって、世界を変えること。決して不可能ではない。何のために世界を変えるのですか?答えはたった一つです。愛する人の幸せのためです。
世界を変える。それは大変なことかもしれません。ただし愛する気持ちさえあれば絶対に可能です。必ず世界を変えて見せる。この気持ちを持って初めて、自分がこの世界に生まれてきた意味があると言えます。もしそうじゃなければ(世界を変えようと思わなければ)生まれてきた意味などない。なぜなら世界は「空」だからです。逆に愛がなければ、愛する人がいなければ、世界を変えることなど不可能です。だから人を愛しましょう。愛する人を求めましょう。
愛する人のために世界を変える。あなたはそのために生まれてきた。そして世界はあなたに”変えられるために”存在しているのです。(補足6)

人間の生き方
 この「究極の慈悲」、あるいは「究極の愛」を実践できるか否かは分かりませんが、いずれにしても人間は誰であっても、この世に生まれてきたからには、次の言葉しかないと思います。
人間とは「慈悲に生きて、慈悲に死ぬ者」なり。

(補足1) 仏教では人々を救いたいという気持ち、即ち「慈悲」に対する執着も捨てなければならないと教えるのです。ただし、慈悲は愛と違ってあくまで相手の自主性を重んじる。仏教はあくまで自力の教えです。こちらが働きかけても相手が自ら行動しようとしない限り、何もできません。釈迦は人々に道を説くことはしても、その道を実践するかしないかは、相手に委ねる。こちらから強引にそれをさせるような真似はしないという姿勢だったようです。何とも薄情ですがそれが慈悲です。それに対して愛は有無を言わさず相手を救う。青山個人としては、時には釈迦の姿勢を超えて、敢て愛に身をゆだねてもいいと思いますが。

(補足2) 人々がイエスに尋ねた。「隣人とは誰のことですか?」と。
イエスは答えた。「ある旅人が途中で盗賊に遭い、財産衣服を剥ぎ取られた上に殴られ蹴られ重症を負い倒れていた。そこに一人のお金持ちが通りかかったが、旅人を見ると何もせずに通り過ぎた。また司祭が通りかかったが、旅人を見ると慌ててその者から離れて立ち去ろうとした。次にサマリア人が現れて、旅人を見つけると、彼を抱き起こし水を与え、怪我を介抱して、通りかかった人に、「この人をどうかあなたの家に連れて行き、衣服を着せ、食べ物を与えてください」と頼み、金銭を渡した。」
イエスは人々に向かって尋ねた。「さて、この旅人にとって隣人とは誰のことだと思うか?」
人々は答えた。「その旅人を介抱したサマリア人です」
イエスは言った。「そうだ。”行ってあなたもそうしなさい”」
これは青山が聖書の中で一番好きな下りなので長いですが載せました。

(補足3) 自分で自分を完全に捉えることが出来るでしょうか?それは”意識”同様不可能です。(図49「意識を確認する」参照)
そもそも「花の写真」を見せられて、「これがあなた」(つまり自分)だと言われても、それをどうやって自分自身だと確認できるのでしょうか?もし自分はこれだと確認できたとしましょう。当然自分以外のもの(例えば山とか川とか)も確認できるでしょう。この自分という確認した何かと山や川は当然関係しています。その境界はどこでしょう?もしこれが自分だとするならば、この世界のあらゆるものを自分と(同じに)しなければならなくなります。

(補足4) 同じように、国民から熱狂的に支持されている君主や政治的指導者、あるいは宗教のカリスマ的教祖に対して、テレビなどで見ただけなのに、会って話をしたこともないのに、つまりその人物を(上っ面だけしか)知らないのに、「この人のためなら死んでもいい!」とか思う。結局それはアイドルと同じ。自己愛です。こういう人たちはやたら周りから称賛されていますが、実際会ってみると、「どこがすごいんだ?」と思いますよ。

(補足5) 慈悲による他者への働きの目的は、社会を変えることではありません。あくまで一人の隣人に促すのです。複数の人間を一片に変えることはできない。あくまで一人の人間に相対するのです。
その一人の隣人ために死ぬ覚悟が持てますか?死を覚悟できない人間が慈悲など決して施せません。あなたは何人も救えたのに、その一人のために死ぬのです。それこそ本望。それでもいいという気概がなければ、究極の慈悲など行えるわけがない。

(補足6) そうです。私たちは誰もが世界を変えるとこができるのです。逆に自分を変えることはできません。自分が変わらないからこそ、我々は主体的に(意図的に)世界を変えることが可能となるのです。ただし、世界を変えると言っても様々です。何も政治体制を変える、革命を起こす。それだけとは限りません。今まで世界になかった新しいラーメンの調理法を発明することも一種の革命です。周りの人間がその調理法を称賛するしないに関わらず、世界を変えたことになるのです。否、単純に自分が何らかの行為をして世界に作用した時点で、この世界は確実に変化します。(他人の手助けをする。単純に人と話す。会社で仕事をする等の行為も、それが世界に対する働きかけなら、世界はそれを受けて変化する)

 もちろん、隣人が真に存在している保証はどこにもありません。自己の見ている幻影かもしれません。否、自分すら存在しているとは限りません。あくまでも仮の存在です。この世界そのものが幻かもしれません。ただし、例え仮の存在であっても、この世界は自分とそして隣人の二人がいなければ成り立たないのです。この世界とはそういうところなのです。

なぜこの世は苦なのか?苦の原因とは何か?
 隣人とは何か、その本質を正しく理解した方なら解ると思います。これまで散々お話ししてきた仏教でいうところの「一切皆苦」(「一切は苦」参照)。なぜこの世界は苦しみに満ちているのか?その根本原因とは何か?それはこの世界が自分だけの世界ではないこと。隣人(他人)が存在すること。(補足7) 自分の思い通りにならない主体が存在すること。それが原因だったのです。つまりあなたにとって、隣人(あなた以外の人間)が存在するから、この世は正に地獄なのです。その地獄にあなたは敢て(自らの意志で)やってきた。何のために?もちろん隣人を愛するため。それ以外に答えはないのです。だから苦しい。隣人(他者)さえいなければ、あなたは何も苦しむことはなかったのです。隣人が存在する。この苦しみの原因、すなわちこの隣人を何とかしなければならない。自分にとって、この世で生きていくための課題はそれだけです。そして自分が隣人に対しできることはただ一つ、即ち隣人(家族や親しい人だけとは限らない。敵も隣人です)を愛することなのです。この世に生まれた者が、例外なく味わう最低最悪の苦しみ。その苦しみを克服するたった一つの道。それが隣人を愛する(慈悲を施す。即ち仏陀にする)こと。それに尽きるのです。

(補足7) 大きく分けて世界は二通りしかない。一つは自分のみが存在する世界。いま一つが、自分と他者が存在する世界。この世界(今我々が生きている世界)は、正に後者です。だからこの世は地獄なのです。これは他者が自分の幸福を奪っている。だからその他人を排除しなければならない。そう解釈してはなりません。そんなことはこの世界で生きている限り不可能です。自分の目の前に今、自分の不幸の要因を作っている(可哀想な)他人が存在すること。それを(自分が)何とかしなければならない。何とかするとは、相手を幸福にすることに他なりません。それが自分の幸福の実現なのです。(「幸福の定義」参照)
もう一つ重要なポイントとして、この世で生きていくことが苦しい原因。それは我々人間が肉体を持つが故です。ではなぜ肉体を持つのでしょうか?それは隣人を愛するが故。隣人に慈悲を施すためには、肉体は必要なのです。

最後に
 ここまで、「人間は何のために生まれてきたのか」というテーマで「天国からの使者」あるいは「菩薩としての転生」を話してきました。また、「何のために生きるのか」というテーマでこの「愛と慈悲」について語りました。ただし、「天国」や「神」あるいは「浄土」、「死後の世界」などは、あくまで青山の創作です。従って「何のために生まれてきた」、あるいは「何のために生きる」についての本当の答えはないのかもしれません。「人生の目的」などない。というのが正解でしょう。
この世界は空です。それだけが真実なのです。科学で答えが出ないものは、本当の答えなんかない。そこにあるのは、統計学的(偶然的)な自然淘汰(結果として生き残っているという理由付けのため)の原理です。
ただし、何一つ意味がなく人間は生きて行けるでしょうか?確かに世界には意味がありません。世界は目的もなく方向もなく存在しているのです。しかし自分(読者であるあなた)は違う。もしあなたが単なる動物ではなく、主体的意思を持った人間であるなら、この人生の目的がなければ生きられない。だから自分でその目的を設定するのです。人に合わせる必要はありません。あくまで自分オリジナルのものです。自由に、思いのままに生きる目的を設定してください。
ただし、誤解してはいけないこと。金持ちになりたいとか、有名になりたいなど、その為に生きるのでは、人間ではなく獣と同じです。そこに意味などありません。そこにあるのは自然淘汰から来る本能的な欲望です。つまり煩悩です。こんなものに支配されるのが幸福でしょうか?そういう外界からの使役によって働かされる煩悩の奴隷になるのではなく、本当に自由に闊達に、そういった浅ましい欲望を超えた、真の幸福のために、我々は世界に対して働きかける。それが幸福です。この世に生まれてきたあなたは、この世界を意のままに、自由に、あるいはどうにでもすることができる。その権利を与えられているのだから。

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