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究極の救い


最初に
 誤解されないように説明すると、ここで語る「浄土」、「神の存在」はあくまで想定されたもの(方便)であり、それが真実かどうかを問うことが不可能なため、科学とはまったく別の次元の話であることをまず初めにお断りしておきます。

死後の救い
 前コラムでお話したとおり、すべての人間は死後必ず救済される?ということです。仮に死後の世界がなくても、一切が無になるゆえに、苦しみはない。苦しみがなければ、そこで絶対の幸福を味わうということです。なぜなら「一切皆苦」ですから、”楽”というものがあるわけではないのです。苦の消滅がすなわち究極の救済なのです。(死が完全な”無”なら、苦しみから解放されたという安堵感もない。「死と真の世界 涅槃と仮の世」で述べた通り、自分の意識としては、自分が存在しない(つまり完全な無)という認識自体ありえない。つまり無とは、生きている人間の側から、死んだ人間を観察したことによる。)
ここで救われるか救われないかは、本人の行為とは関係ありません。誰もが救われるのです。この思想を仏教の浄土信仰においては「絶対他力」と呼びます。(「仏教の限界と浄土信仰」参照)
ここで肝心なことは、この世界で生きている今、「自分は間違いなく救われる」と確信することです。確信すれば、今まさに絶対の安心感が得られるのです。(確信しなくても救われるのは同じですが) 何も心配する必要はない。すべてを任せればいい。自分は間違いなく浄土に行けるのだと。そう信じることによって、現在たちこめている一切の不安が消滅するのです。つまり今まさに救われたのです。(補足1)

究極的な救い
 誰であってもすべての人間(衆生)は必ず救われます。救ってもらうために何か善い事を行う。などは全く必要ありません。何もしなくても救われます。何をしても救われるのです。善人も悪人も関係ありません。神を信じてもいい。信じなくてもいい。福音を受け入れてもいい。受け入れなくてもいい。もしも、何らかの行い(戒律を守る。宗教団体に布施する。洗礼を受ける。あるいはどこかの教会に所属する)をしなければ救われないなら、それらができない人間は永遠に救われないことになります。(補足2)
ただし、この世で生きているときに善を為す。あるいは悪を行えば、それがどんなに些細なことでも、その報いは必ず受けるでしょう。犯罪を行えば当然法の裁きを受けます。今我々が生きている世界は完全な因果関係が成り立っているのです。それを覆すことは誰にも出来ません。
しかしここで言っている救いはこの世のものではありません。死後の救いです。今この世界で生きている我々にとって死後の様子は見えません。だから本当に救われるのか、確かめることができないのです。反対に疑うこともできません。つまり、この死後の救いは、疑うことすらできない究極的な救いなのです。

現世での救い
 では、今この世で救われることはないのでしょうか?という疑問が生じます。ただし、救われない理由はありません。なぜなら、周りの人間は、誰もが慈悲の心を持っています。人々が慈悲の心を持っている証拠は、人間は皆争いを好まず平和を求めていることです。どんなに好戦的な人間でも、常に争い合おうとしているわけではありません。もしも人間がみな平和を求めず争うことだけに熱心なら、人は互いに殺し合い、生き残ることが出来なかったでしょう。
もちろん中には平和より(人を愛することより)も、人と相争うことを好む者もいるでしょう。あるいは人と決して争わず、誰に対しても慈悲を発揮する人もいるでしょう。けれどもいずれも同じ人間に違いありません。
人間はみな多かれ少なかれ、人を愛し平和を求める気持ち(すなわち良心)を持っているのです。人類が今この地球上に存在していることがその証拠です。
しかも争い全てが悪であるとは言えません。あなたに攻撃を仕掛けてくるのも、あなたを力によって救おうとしているのかも知れない。すなわち、あなたの周りのすべての人間があなたに対して慈悲を施す可能性があるのです。(この可能性を別の言い方で「仏性」と呼びます。仏性とは仏の性質。仏教ではすべての衆生にこの「仏性」があると説いています)
結局こういうことです。あなたはこの地獄のような世界に生まれました(生まれさせられました)。あなたは今苦しみのどん底にいます。この世界で最大の苦しみに責めさいなまれ絶体絶命のピンチです。ところがここで救いの手が差し伸べられるのです。この世のすべての人間があなたを救おうとするでしょう。あなたは必ず救われます。なぜなら全宇宙の存在者があなた一人を救うおうとするのですから。
つまりこの世の一切の存在は、たった一人の人間、即ちあなたを救うために存在しているのです。ただ、あなたがそれを信じるか信じないかは別です。しかし信じないとしても、すべての人間があなたを救おうとするでしょう。
あなたはただそれを信じればいい。信じることによってあなたは絶対の幸福感を今ここで得るでしょう。救われるために何かをしなければならないという話は一切ありません。少しでも早く救われるために、善行をする。あるいは念仏を唱える。そんなことをする必要は全くありません。ただ信じること。もちろん信じなくてもいいのです。
 ただし、この世はどうしたって苦しみに満ちていることに変わりはありません。苦しみのどん底にあったあなたをいつの日か誰かが救ってくれるでしょう。しかし一度救われたとしても、また苦しみは訪れる。再び苦しみに落ちたあなたも、以前一度救われたことを思えば、またいずれ救われることを信じることはできます。そこにまた安らぎが生まれるのですが、再び救われてもさらにまた苦しみが襲う。それがこの現世なのです。本当の安らぎ、真の救いはやはり死後なのかもしれません。我々はいつかは死にます。死後は必ず救われるのです。
ただし、今はこの地獄のような世界で生きています。救いを待つ間何をすべきか?今この世に存在していないのなら話は別ですが、正にこの世で生きているのなら、何をするかはあなたの課題です。それはこの世で現に生きている限りあなたにつきつけられた問です。

神とは何か
 果たして神は存在するのでしょうか?実体としての神は存在しません。(「神の存在」参照)
ただし、我々の人知を超えたこの世界の絶対者としての神は、”存在しない”と言えるでしょうか?あなたを含めてすべてを創造した唯一絶対、全知全能の神は、存在するでしょうか?
存在するとしてもそれを証明することは出来ません。なぜなら神は絶対者です。人間の理屈を超えています。人間の頭脳で存在するかしないかを判定することはそもそも不可能なのです。神とはそういう存在です。(補足3)
理屈で考えれば、神は矛盾そのものです。全知全能という言葉にも矛盾があります。
有名な話、「神は誰にも持ち上げられないほど重いものを作れるか?」作れる=全能、それを自分は持てない=無能。
「神は未来に起こること全てを知っている?」知っている=全知。神は自分が知り得た未来を思い通りに変えられない=無能。
しかし神は自分が作った重いものを決して持ち上げないでしょう。神は自分が知りえた未来を決して変えようとは思わないでしょう。
なぜか?神には(明確な)目的があるからです。その目的に関係ないことは行いません。
では、神の目的とは何でしょうか?「分からない」としか答えようがない。なぜなら神は人知を超えているからです。しかし分からないなら、我々が(自由に)決めてもいいことになる。
では、神の目的とは何か?それは「人間(あなた)の救済」です。(人類の救済ではないことに注意)
神はたった一人あなたを救済するために存在しているのです。 嘘でしょう?もちろん信じる信じないはあなたの自由ですが。信じさせたいならその存在を証明する必要があります。しかし証明は不可能です。しかし証明することは出来ませんが、(あなたにその気があるなら)信じることは出来ます。もちろん信じる信じないは自由です。信じない人がいてもまったく問題はありません。
ただし、信じることがこの世で生きていく上で有用なら、信じてもいいでしょう。存在しないとしても信じるのは自由です。我々にとって神が必要なら、神を作ればいい。必要ではない。即ち有用ではないなら、その存在を考えること自体無意味です。つまり我々人間にとって有用な、そして信じるに値する素晴らしい神を我々の自由意志によって創造すればいいのです。

神による救い(ここからは全く青山の創作です)
 では、神がいるとして、神はなぜ世界を創造したのでしょうか?
答え:神はこの世界を造ってはいません。こんな汚れた最低最悪の地獄のような世界を神が造るわけがありません。神が造ったものは天国です。この世界は仮の世です。こんな世界が存在していると思い込んでいるのは我々人間です。我々は不完全な存在だから、この世が地獄に見えるのです。
では、神はなぜ天国を造ったのでしょうか?
あなたのためです。あなたを愛するがゆえに天国を造ったのです。
では、神はなぜ人間(あなた)を造ったのでしょうか?
神は愛する対象として人間を創造したのです。神が求めていたのは愛する対象即ち隣人です。隣人を愛したいがゆえにあなたに命を与えたのです。つまり神は”愛”そのものです。(補足4)
なぜこんな不完全な人間を創造したのですか?
もしも完全なら愛する対象にはならないでしょう。不完全だからこそ神はあなたを愛するのです。もしあなたが完全なら、神が存在する必要もないのです。
神は常にあなた一人を愛しています。あなたが神の愛に応えるか応えないかに関わらず。神の意思に忠実か否かに関わらず。悪人か善人かによらず。あなたが神を信じないのは自由です。ただし、あなたにとって神が必要なら、そして究極的に救われたいなら、神の存在を無条件で信じることです。神が自分を救うという確信を持つのです。神にすべてを捧げるのです。そして絶対的な帰依を誓うのです。神の命に服従し、神の前にどこまでも清く従順であるとき、あなたは神の愛に包まれるのです。
そう信じないさい。あなたは隣人である神を愛しなさい。あなたは間違いなく救われるでしょう。

本当の喜びとは何か
 「一切は苦」で示した通り、人間にとって苦と楽が対称的にあるのではなく、実体があるものはあくまで「苦」であり、「楽」とは苦が消滅したこと(欲求が満たされたこと)を指します。(図71「苦と楽」参照) この苦の消滅は、外界からの作用です。例えば旅の最中空腹に襲われた(=苦)。突然目の前にレストランが現れた(=苦の消滅=楽)。ここでもし予めレストランの場所を調べておき、そのおかげで容易にレストランを見つけられたら、その時の喜びはあまり大きくはない。なぜでしょう?
人間は努力によって得た幸福にはあまり喜びを感じないのです。なぜなら、それは得られて(レストランが見つかって)当然だからです。ここで(レストランを)見つけられなければ不快が生じるでしょう。人は思いかげない幸運を得たときに喜びを感じるのです。例えばレストランを前もって調べておくことを忘れた。困っていた時に、突然レストランが目の前に現れた。「ラッキー!」と言うわけです。レストランが見つかったのは、自分の努力ではありません。単なる運です。つまり自分以外の働きです。それを得たとき人は心から喜びに満たされる。その外界の働きとは「神の働き」かもしれません。つまり人間は本質的に”神の救い”を有り難がっているのです。
「喜び」とはこんな些細なことから、一生に一度しか味わえないものまであります。もしもあなたが絶望の淵で苦しんでいるとき、本物の神が現れたなら、あなたはきっと感動で全身がうち震えるくらい喜びに満ち溢れるでしょう。涙が溢れてとまらないでしょう。これが本当の幸福です。
つまり真の幸福は、自ら得るものではありません。”他によって与えられる”ものなのです。(補足7)

神についての正しい見解
・神は(宇宙の)最初の創造だけに預かっているのではありません。神は常に今現在もあなたを救うため(愛するため)に存在しているのです。
神は絶対です。救いの神です。愛の神です。神の前に我々は無力です。神はあなたが信じる信じないに関わらず存在するのです。従ってあなたも神を愛すべきです。神を愛したとき初めてあなたは平安を得るのです。
・神は人間に試練を与えているのでは決してありません。あなたは勘違いされています。神はこの世界に人間を放り込んで、その人間がこの世の苦しみに耐えられるかどうか観察している。耐えられればその人間を天国に迎え、耐えられなければ地獄に落とす。しかし神は既にその人間が耐えられるか耐えられないかをご存知のはずです。
神はそんなに暇なのか?もしそうなら、神は何のために人間に試練を与えるのですか?人間を成長させたいから?なぜ人間を成長させなければならないの?その人間を愛しているから。もし本当に愛しているならこんな遠まわしなことをせず、わざわざこの世という地獄を設けずに、ただ我々に優れた能力だけを与えてくれればいいではないですか。そうすれば我々は労せずして成長するでしょう。なぜなら神は我々を愛していますから。(補足9)
この試練の話は人間が勝手に創作した嘘です。神は我々に試練なんかを与えてはいません。神はあなたをわざわざこの地獄のような地上世界に遣わして、さらにあなたに困難な課題を与えて、それを乗り越えられるかどうかを試しているなんて、そんな悪趣味の持ち主じゃありませんよ。
神はただあなたを愛するのみです。そうでなければ神が存在する意味がない。神は我々人間にとって意味があるから存在するのです。
・実体としての神は存在しません。神が存在しないのなら、人は生身の人間に帰依してしまうという過ちを犯すかもしれません。我々は間違っても生身の人間なんかに絶対的な帰依などしてはなりません。
あなたは賢くなって相手が神なのか悪魔なのかを見極めなさい。神に帰依しているつもりが誤って悪魔に帰依しないように注意するのです。悪魔はあなたをだまし甘い言葉で誘惑するでしょう。いかなる人間(予言者あるいは宗教的権威)も所詮被造物です。それが神の振りをしているかどうか、心を清くして見定めなさい。
ただし、神を名乗る人間が悪魔なのではありません。悪魔はあくまであなたの心の中に住んでいるのです。(悪魔などという実体はない)
※後ほどあらためて説明しますが、宗教の悲劇は、生身の人間(教祖など)を絶対視して、それを神のように崇めてしまうことにあります。教祖のカリスマ性(インチキ性)に心酔してしまった無知な信者たちは、善悪の判断もつかないまま盲目的に犯罪行為に走る。宗教の長い歴史の中で、この弊害がもたらす悪がいかに大きいか。
誤解しないで欲しいことは、実体としての神はあくまで存在しない。神は心の内だけに存在する。例えあなたが神を信じたとしても、科学的な見識を常に捨てずに持つことです。特に他者に接する場合は、理性を持って、現実を見据える。それが隣人(他者)に対する愛です。

究極の救い
どんな無神論者でも、あるいはどんなに自信過剰な者でも、いつか必ず絶体絶命の危機に陥る。あるいは自分ではどうにもならないような困難が襲う。地獄の底に落とされたような絶望感を味わう。どんな人生を歩もうと、誰にとってもいつの日か将来必ずそれは訪れます。その時は誰であっても神に跪いて助けを乞う。あるいは自分をさらけ出して祈るのです。そして悔い改めるでしょう。自分がこれまで信心深い振りをして、実は偽善を働いてきたことを。自分がこれまで犯してきた数え切れない罪を後悔するのです。人間は皆罪人です。そんな最低最悪の罪人であるあなたを神はお許しになるでしょう。あなたは神に抱かれて天に上って行く。これが究極の救いです。

祈りとは何か
神に祈る際、こういう祈り方は良い。とか、こういう祈り方は良くない。とか、祈り方によって、神が願いを聞き入れるか聞き入れないかを決定するわけではありません。なぜなら本当は神など存在しないからです。
神が存在しないなら祈っても無駄?
確かにそうかもしれません。しかし人は、神はいないと知りながらも祈らざるを得ないのです。
もし本当に救われたいのなら、今真に神に祈りを捧げたいのなら、その時あなたは誰かに教わることもなく、祈り方を知っているはずです。あなたはあなたの祈り方で祈ればそれで良い。ただし、本心から救われたいという気持ちがあることが条件です。正に心から祈れば神はあなたを救う。そう信じることです。
神が全知全能なら、祈ってもしょうがない。と言う人がいます。それは間違っています。神は全知だから、今あなたが心を込めて祈っていることをすべてご存知なのです。何を祈っているかも知っておられます。神は全能だから、そのあなたの祈りがいかなるものであっても、それに応えることができるのです。神に不可能はありません。祈りに応えるか応えないかは神次第なのです。人間にはどうすることもできない。人間は全能ではないからです。
もし、祈り方によって神が応えるか応えないかが決まるのであれば、つまり祈り方には”作法”があり、その作法に則れば神は必ず祈りに応える。その方法を人間が知っているのであれば、神は一つのシステムのようなもの。つまりインプットとが正しければ(たとえば貢物(あるいは生贄)をこれだけ捧げれば)、人間にとって望ましい結果が出力される(アウトプット)というわけです。だとすると神は明らかに全知全能ではない。唯一絶対ではありません。なぜなら人間の行いに左右されるからです。(日本の神社参拝のように、祈り方によって神は望みを叶えてくれる。つまり神は絶対的な存在ではない)
神が人間の祈りに応えるか応えないかは保障がない。人間がいかに努力しても、あるいは非常に高い能力を備えた天才であっても、100パーセント神に応えさせることは不可能です。そうであっても人間は祈らざるをえない。心を込めて純粋に祈れば、必ず神は応えてくれる。そう信じ切ることしかできないのです。無条件で信じるのです。自分をさらけ出してすべてを神に委ねるのです。自分が無力であることを自覚するのです。あなたの祈りは神に届くかもしれない。否、届かないかもしれない。否、絶対に届くでしょう。

(補足1) この”死後の救い”が有るのかないのかという問題を「後生の一大事」(蓮如1415〜1499(室町時代の僧)の「御文」より)といいます。つまり死んだらどうなるのか分からないから将来が不安なのです。将来が不安だから今が不安なのです。この死後が分からないというのが人間にとって最大の不安であり、かつそれが一切の(人生のありとあらゆる)不安の根源です。つまり死後が明らかになれば、すべての不安は消滅するでしょう。
結局死んだ体験をした人間は一人もいません。従って死んだらどうなるのか?誰にも分からないのです。死んだ後のことを確かめることが不可能である以上、逆に自分で好きなように死後の世界を想定することができるのです。「死んだら”無”になる」そう信じればいいのです。誰も否定できません。無になれば苦しみもありません。人間は確かめることができなくても信じることはできるのです。

(補足2) 念仏を唱えた者は救われ、唱えない者は救われない?嘘です。浄土の教えを聞いたことがない者(例えば原始人)、あるいは念仏を唱えられない人間(例えば乳児)は、どんな善人でも、且つ道徳的な人間でも救われないのか?福音を信じる者は天国に迎えられ、信じない者は地獄に落とされる?嘘です。そもそも福音を聞いたことがない者(例えば異邦人)は、どんなに心が清らかで他者をひたすら愛する天使のような人間でも救われないのか?悔い改めた者は死んでも復活し永遠の命を得て、悔い改めることを知らない者(例えば犬や猫)は、死後永遠の苦しみを受ける?嘘です。
なぜ嘘だと分かるのか?誰も死んだ経験などありません。イエスや釈迦でも死後のことは何も分からないでしょう。だったら地獄なんかないとも言い切れないじゃないか。もちろん、しかし死後のことがどうやっても確かめられない以上、どのような死後の世界を想像してもいいわけです。そして今(生きているこの時)それを絶対的に信じてもいいのです。そもそも善いことをしたら天国へ、悪いことをしたら地獄へ行くなどということは何の確証もありません。それらはこの世で、犯罪(為政者が大衆を支配するために作った法律を破ること)を行わないよう人々を戒めるための方便です。あるいは宗教団体が信者を獲得する(あるいは脱会させないようにする)ための(薄汚い)飴と鞭です。天罰なども皆嘘です。すべての人間は救われるのです。

(補足3) このことはすなわち神など存在しないと言っているに等しい。ただし神の存在を信じることはできる。

(補足4) 神は愛する対象が欲しいがために、わたしを造った?余計なことをしやがって!とあなたは憤るかもしれません。では、こう考えてみましょう。あなたは神によって造られたのではなく、あなたはもともと存在していた。神はあなたを愛するがゆえに、あなたに身体と隣人と世界を与えた。つまりあなたの本性(意志)以外は神の被造物です。なぜ神はあなたのために隣人を遣わしたのか?神同様あなたも愛する対象が欲しいと思ったからです。神はそれに応えたのです。もちろんあなたを愛するが故にです。隣人は神の御使いです。否、神そのものかもしれません。その隣人とは、例えばあなたが今憎いと思っている隣にいる人間です。その人物をあなたに愛して欲しいが故に、神はその隣人を遣わしたのです。
神が自分を造ったのか?それとも自分はもともと存在していたのか?どっちが正しいの?どちらも正しいのです?これは正しいか誤っているかを問う次元の話ではありません。あなたは自分の好きな方を選べばいいのです。なぜなら本当は(現実的には)神など存在しないからです。(補足5)

(補足5) 旧約聖書他神話の多くは最初に人間を創造したのは神であると記されています。しかし神が全くのゼロから人間の意志も人格も生成したのなら、我々はただ神の操り人形に過ぎない。物語の登場人物と同じように我々は作者である神を意識することすらできません。そんな神は我々にとっては何の意味もなく、不要な存在です。そうではなく我々は永遠の過去から永遠の未来に至るまで常に存在している。(無論、肉体を持った存在とは限らず) つまり神と自分は常に並行的な存在であると。(補足6) 確かに自分の意識は今現在しか存在しない。しかし我々はみな永遠の存在なのです。もし人間がある時点で無から作られ、またある時点で無に帰す存在なら、我々は自分が自分であることすら認識できない。つまり我々の本源は生成されたのではないということ。神話で記されている神による我々の創造は方便に過ぎないのです。

(補足6) 神とあなたはあくまで一対一の関係です。あなたにとっては唯一であり且つ絶対です。

(補足7) 「幸せとは自らの努力と汗で掴み取るもの」と主張している人に。その幸せとは何ですか?結局、食べたい飲みたい。金が欲しい。出世したい。有名になりたい。人から喜ばれたい。などの欲望を満たすことですよね。それって何か意味があるんですか?それらの欲望だって所詮動物としての生存欲です。
もしも自分の幸福が他によってのみ与えられるものなら、幸せになるために一生懸命努力しても、あるいはそれほど努力しなくても同じことだ。だったら努力なんかしない方がましだ。と反論する人がいるかもしれません。ならばお伺いします。あなたは何のために努力するのですか?幸せを掴むためですか?でもあなたが幸福を得られるとは限りませんよ。なぜなら、あなたを幸福にするかしないかは、世界にその決定権があるからです。あなたにはありません。それ以前にあなたは何のために生きているのですか?もう一度問い直してください。
あなたはまだ誤解されているようです。「あなたにとっての幸福」とは、あなたが世界(つまりあなた以外の存在)を観察した結果、それがあなたにとって好ましい状態なら”幸福”なのです。つまり幸福の決定権は世界の側にあるのです。(「幸福の定義」、図1参照)
 ここで述べていることは、人生良いこともあれば悪いこともある。確かに思いがけない幸せが与えられたら、それは素直に感謝すればいいのです。しかし良いことばかりではありません。思いがけない不運に見舞われるかもしれない。人生には誰にだって困難や障害が幾度も訪れます。その時は絶望する。生きる気力を失う。それでいいのでしょうか?
いいえ。幸福が与えられたら、喜べばいい。不幸が訪れたら、それを乗り越えればいいのです。そんな誰もが乗り越えられるだろうか?もちろん、問題全てを解決することは結果的に無理かもしれません。しかし乗り越えようとする気力は必ず持てます。それには生きる目的を明確に持つことが必要です。そのためなら、どんな不幸に襲われようとも、どれほどの困難が立ちはだかろうとも、それを克服して見せる。という何事にも負けない気力を持つことができる究極の目的です。つまり良いことと悪いことは対称ではないのです。幸せとは、他から与えられることによって自分が喜びを得るもの。不幸は自分が生きる目的を持つことによって克服するものなのです。そのいかなる困難をも跳ね返せるほどの力を手にするための究極の生きる目的とは何か?この後に述べます。

 人間は自分自身を変えることはできません。変えるもの(主体)と変えられるもの(客体)が同じ。それは矛盾です。変えられるとしたらそれは自分の目の前にある「世界」です。例えば、自分が好意を抱いている相手に対して、自分に向かって「あなたが好きです」と言わせることは可能です。そう言ってくれれば100万円をあげると言えば、大抵の人は言ってくれる?でしょう。しかしそれであなたは満足ですか?幸福ですか?本当はそんなお金などあげずに、相手が心から「好きだ」と言ってほしいのです。しかしそれは相手次第です。つまりあなたが幸福になれるかどうかは、相手(即ち世界)次第なのです。あなたにはどうすることもできません。あなたの幸せは、他から与えられるものなのです。
人間は自分が幸福になろうと思って一生懸命努力する。しかし努力してもままならないことはあります。幸福になろうとすることは即ち幸福に執着することです。その執着から苦しみが生じる。そう教えているのが仏教です。(補足8) 幸福に執着するのは止めましょう。幸せを得ようと思って努力するのではなく、幸せになりたいとただ願えばいいのです。いつか必ず与えられるでしょう。

(補足8) もしも幸福になりたいという欲が、煩悩即ち動物としての生存本能から来たものなら、それを求めることは一種の「執着」である。執着から苦しみが生じる。

(補足9) 親は時に子供に対して厳しく教育することがあります。それは子供を愛しているからです。なぜなら親はいつか死にます。親は思います。自分が死んでも子供に一人で生きていって欲しいと。そういう願いがあるからです。しかし神は死にません。死なない神が人間に何を求めるのですか?自立心ですか?神がいなくても一人で生きていけるように。最初から神なんかいないのにですか?
よく言われる言葉「神は我々が乗り越えられない試練は与えない」というのも嘘。何のために神は試練を与えるのでしょうか?ただし自分が困難に出会ったとき、そう思うことによって耐え忍ぶことができる。そういう力が得られるのは確かですが、神は存在しません。(心理効果としては有効)
我々が神に何かを求めることはあっても、神が我々に何かを求めることはない。なぜなら我々は神の被造物ですから。
最後にお断りします。このコラムで示された「神の存在」および「死後の世界」はこれまで示してきた通り、科学的には証明不可能です。つまりこれらは単なる想定であり、信じない方に信じさせることは決していたしません。この「科学概論」は宗教ではないのですから。その点だけは絶対に誤解のないようにお願いします。

絶対に裏切らないものを信じる
最後に一点気に留めてほしいことがあります。神や死後の世界を自分一人が信じることは自由です。宇宙人の存在、天動説、地球平面説なども信じるのは自由。ただし、科学的にそれが誤りであることが証明されないとも限らない。もしそれが事実でないなら、潔くそれを捨て去る覚悟はありますか?科学者ならもちろん事実を受け入れます。なぜなら科学は信じる信じないという問題ではない。科学の目的は、真実とは何か、そのほとんど永遠の問いに答えることにあるのです。だから宇宙人は実際はいてもいなくてもいいわけです。それが事実なら。たとえ自分に、どうしても宇宙人がいてほしいという願望があったとしても。
科学者でないにしても、この現実世界で生きる人間なら、事実は認めるしかないのです。そうでなければ自身を破滅に導くでしょう。つまりいかなる状況でも科学的態度は必要だということです。
でも、神や死後の世界は確かめようがない。信じてもいい?もちろんです。しかし、神や死後の世界は現在はまだ証明されていないが、将来必ず科学によって証明されるだろう。そうすれば、誰もが神や死後の世界を信じることになる。という考え方には問題があります。もし将来神や死後の世界が科学によって否定されたら、あなたはその事実を受け入れますか?神や死後の世界を科学でいう仮説とみなせば、実験によって証明されたり、逆に否定されたりするわけです。あなたが心から神や死後の世界の存在を固く信じていたとしましょう。いつかそれが否定されても、あなたはその事実をなかなか受け入れられない。あなたが素直にその事実を受け入れない限り、間違いなく不幸の道を歩むことになる。はっきり言って宗教は魔物です。
では、神や死後の世界ではなく、あなたが信仰する宗教団体の場合を考えてみましょう。あなたが人生に空しさや倦怠感を感じていたときに、この宗教に出会ったのです。教祖の語る理想に人生が復活する思いを得た。教団の圧倒的なパワーに心から感動を覚えた。本物の救世主に出会えたような喜びに震えた。何か世界の奥義を知ったような気になった。それ以来あなたは熱心な信徒として、人々をこの宗教に勧誘する仕事に従事してきました。一人でも多くの迷える人間たちを救ってきた。そう信じてきたのです。しかしある時知ってしまった。自分が信仰してきた教団が実は詐欺集団だった。人々から金を巻き上げ、誠実で清貧に思えた教祖は、実は金の亡者だった。たくさんの愛人を持ち、ハーレムに囲っていた。心から信頼してきた教祖が実は大悪党だった。それを知ったあなたは、その事実を受け入れますか?あなたの信仰心が強ければ強いほど、なかなか受け入れられない。少なくても時間が必要になるでしょう。しかしここでもしその事実を受け入れるのを拒んだら、その葛藤に耐えられず精神に異常を来し、それが高じればいずれ狂気と化す。もともと善人だったあなたがいつしかテロ集団の手先になって、人々の幸せを奪うことになる。
事実を認めるのは耐えがたい苦痛だと思います。その教団や教祖を捨てるには相当の勇気が必要です。あなたは裏切られたのです。しかしもともとはあなたがそれを勝手に信じてしまったことが原因です。教団があなたを騙したのではありません。、もともと教祖は詐欺師だったのです。教団に入信する前のあなたは、何もなかった。無価値人間だと思っていた。そのあなたが教団にのめり込んでいったのは、何とか人生の生きる意味、自分の価値を見出したかったからです。あなたが教団を手放せないのは、いつまでもその権威にしがみ付いていたいからです。(補足10) 教団という拠り所、その失うことは死を意味するのです。しかし、ここで、できるだけ早くこの宗教から離れなければ、あなたが破滅します。すべての幸福が失われます。いずれにしてもこの現実世界で生きていくなら、信じることを捨てても、事実は事実として受け入れるしかないのです。これが科学的な態度です。科学は人間にとって必須です。
お分かりですか?現実はあなたを裏切るかもしれないのです。否、あなたが勝手にそれをそうだと信じてしまったのがいけないのです。だから、心からあなたが信じるものは、絶対に裏切らないもののみです。つまりあなた自身の心の中にいる、あなた一人と相対する神です。だからその神は他人には決して語れないものなのです。
死後の世界も生まれる前の天国についても、この世界から観察することは不可能です。即ちこの世界の人間(つまり我々)にとっては存在しないに等しいのですが、自分が生まれる前この世界においては「無」であり、別世界にいたとしてもそれを否定することはできません。同様に、自分が死ねばこの世界においては「無」になるのではあれば、別世界(死後の世界)に赴くと自分一人が信じる分には誰も否定できません。青山が言いたいことはそれだけです。

(補足10) 自分に価値がないからこそ、外の権威(教団)と自分を同一視することによって、自分に箔をつける。

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