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繁栄イコール悪


 前コラムの「ささやかに生きる」(清貧的に生きる)をさらに続けます。
以下は青山の(自分で考えた)座右の銘です。参考にする必要もないけれど・・・

・人に勝とうと思うな・・・人生に勝ち負けなどない。勝って一人自己満足に浸りたいのか?争いに明け暮れるのは愚かなことであり、仏教の「修羅界」である。
相手に勝つ。トップになる。何かの競技で優勝する。これらは皆下らないこと。(「競争について」参照)
・チャンスを逃がせ・・・今が好日。いつでも好日。時を待つなら気長に待て。(一生待っても好日は訪れないかも?)それでよい。誰も知らない得する話を自分だけが知っている気になっていませんか?そんなことはみんなとっくに知っていますよ。このチャンスを活かして、今まで自分をバカにしてきた周りの連中を「あっ!」と言わせたい。そんな身の程知らずな愚か者があなた?です。自分は小物であることを自覚しましょう。
・繁栄イコール悪・・・繁栄は自己の欲望による他者への搾取であり、その反動・報いを受ける。そこには苦しみしかない。繁栄とは偽りの幸福である。「儲けることは犯罪なり」 国家の繁栄も人類の繁栄も意味はない。そんなものの犠牲になんか死んでもお断り。
繁栄とは、(愚かな)人間たちの悪しき欲望(金を儲けたい有名になりたい)の成れの果てです。その欲とは、動物としての本能的欲(食欲、性欲、生存欲を人間に置き換えたもの)。仏教では「煩悩」と言います。それを推し進めること、それが”繁栄”です。
・実こそすべて・・・目の前の現実こそがすべてであり、他に何かがあるわけではない。科学の基本姿勢。(清貧とは関係ありませんが) だから、本当のことをズバリ言いましょうよ。何でもかんでも暴露しましょう。遠慮なく。周りから非難されるのを恐れて、言いたいことも言わずにストレスだけ貯めるなんて詰まらない人生です。あなたがそれを暴露することによって世間がどう混乱しようが関係ありませんね。結局は嘘。誤魔化しです。あなたが黙っていても何も変わりません。あなたは永遠に不満を抱えたままです。寝た子を大いに起こしましょう。
・男たるもの義理を重んじてはならない・・・義理は相手に気を使うこと。相手に媚を売ること。つまり自己保身の表れ。そんなことをして何の役に立つのか?「男たるもの」は余計ですが。
・生き残る必要はない・・・よく生物の生態に関して、「生き物たちは生き残るために必死」などのフレーズがありますが、「生き残る」というのと「必死」(必ず死ぬ)は相反していませんか?この生物は生きたいのか?それとも死にたいのか?すべての生物は(人間も含め)死ぬのです。会社でも事業でも、よく「生き残りを賭けて 云々」とありますが、駄目なものは駄目であり、うまくいくかいかないかはやはり”運”でしょう。
ライバルに勝って生き残る。強くなければ生き残れない。優しさだけでは駄目だ。世の中ではよく言われますね。でも、人間にとって一番大切なことは優しさだと思います。その優しさを捨てるくらいなら、生き残りたいとは思わない。生き残ることに何の価値もありません。意味もありません。

三悪一善
 「三悪一善」とは何のことだ?青山が考えた新語です。三悪の一つは「小悪」といい、生まれながらにして裕福な者、社会的地位を得ている者、王侯貴族を指します。従って努力する必要がない。仏教で言えば「畜生道」です。(注) 釈迦も出家しなければただの「小悪」でした。ただし、自ら儲けようとしない(繁栄を求めない、既に繁栄している)だけまし。
二つ目は「大悪」といい、生まれたときは貧乏、その上で頑張ってお金を稼ぎ、事業を成功させて大金持ちになる。あるいは社会的地位を得る。いわゆる「成り上がり者」。繁栄を実践してしまったため、前の「小悪」より悪い。仏教でいうところの「餓鬼道」。(注)
一善というのは、今現在貧乏ではあるが、貧乏で良しと思っている。貧乏を愛する貧乏人。この青山みたいな人間?(余談ですが、青山は貧乏に生まれて、貧乏に育った。釈迦とは正反対。ただ甘やかされて育てられたため、努力して金持ちになろうとは思いませんでした)
では、最後に残った三つ目の悪は?それは今現在貧乏であって、金持ちになりたい。有名になりたいという欲を抱いているが、金持ちにも有名にもなれない。それでも金持ちあるいは有名になることをあきらめず、貧乏のまま一生を終える者。これを「極悪」といいます。繁栄を実践しているため「大悪」と同じですが、金持ちになれないため、いつまでも繁栄が悪いことに気づかない。(「大悪」は成功を既に果たしているため、いつかはこの「繁栄イコール悪」に気付く) 仏教でいえば「地獄界」です。(注)
 さて、ここに三人の人間がいたとして、皆おいしい物を食べたいと思っているとします。おいしい物は(値段が)高い物だと思っているAさんとBさん。Aさんは大金持ちであり、金をいくらでも払って毎日高い物を食べている。Bさんはそんな高い物を買う余裕がない。安い物=おいしくない物を食べて我慢するしかない。それに対してCさんは、安くてもおいしい物(本人が好きでおいしいと思っている物)を食べている。それはありふれた食材であるが、毎日満足に食事をしている。さて、この三人の中で一番幸せな人は誰でしょう。また一番不幸な人は誰でしょう。
(注) 畜生道=畜生界、餓鬼道=餓鬼界、地獄界については、「十界」を参照のこと

清貧の哲学への批判
 こんなふうに貧乏を賛美すると必ず批判されますね。「おまえはお金が欲しくないのか」って。もちろん青山だってお金をもらえればいただきますよ。でも”ただ”でお金は手に入りませんよね。もし天からお金が降ってきたら拾います。これだけのお金を得るために、こんなにも労働しなければならないなら、考えますよ。たかが金持ちになるために、死ぬほど働かなければならないなら、貧乏でいた方がましです。
 世の中には、清貧的な生き方を否定する人もいます。まったく愚かと言うほかない。清貧を採り競争原理を否定するところに、人類の進歩、発展はないというわけです。
けれど、”人類の進歩”って何ですか?”発展”っていったい何?この世は”空”なのに、人類が目指すべき方向性などありません。この世は「空」だから、何をやっても無意味です。自己満足を超えることはないのです。そこのところが解っていないようですね。
そんな人類の進歩や発展なんてただただ下らないだけです。(結局人類の進歩や発展などは、獣としての浅ましい本能的欲求に過ぎない) 偉人と言われる釈迦もイエスも進歩や発展なんか頭になかった。ただ自身の清貧に生きただけです。(それに対して現代宗教の教祖の金満体質は反吐が出る)
「清貧の哲学」への批判は、もっと儲けろということで、それは金持ちの指向です。金持ちならわかるが(金持ちである事を人々から賞賛されたい。そのために清貧の哲学は邪魔になる) 金持ちではない貧乏人がそんなことを吐き、”清貧”は裕福、成功者に対する”嫉妬”だという。青山から言わせれば、金持ちからハナクソのような金で買収されたのか?と思います。
青山は、この清貧的生き方が愚かだとする考えを、覆せる決定的な理由を知っています。
もし自分が自分の意志でこの苦しみの世界に生まれてきたというなら、ただ何もしない。出来るかぎり何もしない。清貧的な生き方は間違っている。と言えるでしょう。せっかく生まれてきたのに、何もしなければ、何のために生まれてきたのか?わからない。
しかし人間は誰一人として自分の意志で生まれてきた者はいない。生まれさせられたと言っていいのです。
だから、どうせ生きるなら、楽しく生きる。(金を儲けたり使ったりすることは返って苦痛です) どうせ死ぬなら、清貧に生きる。と言うわけです。

戦って勝つことこそ愚か 「戦争」について
 現代の仏教では「一切皆苦」を(あまり)説きません。しかしそれは現実(現実を正しく直視しないこと)に対する誤魔化しです。せっかく釈迦が気づいたこの宇宙の真理を無視する、あるいは反対の事を言うとは、釈迦の顔を土足で踏みつけるようなもの。
この「一切皆苦」を敬遠する最大の理由は、(この世が苦しみしかなければ、人間は何事にもネガティブになり)、結果として”物が売れなくなるから”。つまり景気が後退するから、です。
国の指導者も政治家も役人も、そして会社の経営者も資本家も、この”景気後退”を何よりも恐れるのです。彼らにとってそれは悪夢以外の何者でもない。
物(富)が一定量なら、景気は必ず後退します。これは経済学の原理です。後退させないためには常に経済を成長させなければなりません。(この経済学上の問題は、別紙2「裏の経済学」で) そのためには競争が必要です。だから政財界の連中は競争を煽るのです。欲を出せと、戦って勝って利益を得ろと。まるで戦前の日本かみんなの嫌いな北朝鮮だ。

 欲望に使役されると、必ず人は争うことになります。
戦争の本質はここです。競争原理(人間の勝ちたいという欲望に従い互いに敵と競争すること)によって人類が進歩して幸福になれると思っているのでしょうか?戦いに勝利したって無駄です。空しいのです。なぜなら世界は無意味(空)だから。競争に勝ってもいずれ誰もが(寿命が尽きて)死ぬということです。
人類の進歩って何ですか?何をもって”進歩”といい、何をもって”後退”と言うのですか?(その基準も方向もないのに)
人口が増えることですか?(地球が満員電車並みになること) 医学の進歩により人間の平均寿命が(わずかながら)延びること?そんな基準は宇宙には存在しません。

 戦争がいかに理不尽で悲惨なのか解っていますか?
戦争にルールなどありません。共通のルールがある戦いなどありません。あるとしたらそれはゲームです。(「競争について」参照)
あなたは相手より得点を上げれば勝ったと思っているかもしれませんが、相手はあなたを殺害することが勝利だと思っているかもしれない。相手が木刀で来ればこちらは真剣で行く。相手が真剣ならこちらはピストルで。相手がライフルならこちらは大砲。戦いというものはこういうことです。

人類の存続よりも重要なこと
 なぜ戦いに勝たないといけないのでしょうか?戦いに勝たないと生き残れないから?戦いに勝っても人間はみな最後は死にますよ。だから勝つ意味なんかありません。あるのはただ、自分は死ぬけれど、子孫つまり国家あるいは人類という”種”は生き残る。子だって孫だって、自分より後かもしれないが、必ず死ぬのです。生き残るのはこの”種”だけ。この種、すなわち人類という生物学上の種を存続させて、そこに何の意味があるのでしょうか?
恐竜が滅んで人類が生き残る。逆に人類が滅んで恐竜が生き残る。果たして宇宙にとってはどちらがましか?そんなことはどっちでもいいのです。関係ありません。宇宙に意志なんかない。人類が滅んではいけない理由はありません。人類が滅んでしまうと困るのは人間だけ(その困る人間が一人残らず生きてはいないのだから心配は不要)です。(他に動物園の猿?餌をもらえなくなるから)
ではなぜ(人類が滅んでしまうことが)”嫌”なんですか?(人類は存続しても自分は死ぬのに)
理由なんかありません。嫌だから嫌なんです。その”嫌”という感情はどこから生まれて来るのか?それは人間に元々備わっている本能から、人類が滅びることに嫌悪感を抱くのです。では、なぜそんな嫌悪感を抱くのか?理由はただ一つ。すべては進化の過程で身に着けた性質。つまり”自然淘汰”の産物です。なぜなら「自分”たち”は滅んでもいい」と思っている種が、生き残れるでしょうか?(補足1)
しかも進化そのものが無意味なのです。なぜなら生き残るか生き残らないかは偶然が決定するものだからです。生き残ることに(この宇宙における)意味などないのです。
「ではおまえは、人類が滅んでもいいと思うのか?」
いいえ、わざわざ滅ぼす必要はないと思います。ただし人間にとって、「人類という生物学上の”種”」の存続が”何よりも”優先されるとは思いません。つまり人類の滅亡を何が何でも阻止する必要はないと思います。なぜなら個々の人間は必ず死ぬのですから、人類という種を生き残らせることは、宇宙にとって必要とは思えません。(もしも努力次第で人は死なない。個人が永遠に生き残れるなら、考え方を改める必要があるかもしれませんが) 自分(青山)が生きている間に隕石の激突や伝染病の蔓延、あるいは食料飢餓、あるいは世界的核戦争が起こって、それで死ぬのは確かに嫌です。しかし核戦争が起こらなくても、青山もいずれ死にます。原因はわかりませんがあなたも死にます。自分が死んだ後、人類がどうなろうと関係ありません。ただ生き残った子孫がやはり核戦争の犠牲になって死ぬのは嫌でしょう。それは自分と同じです。ただし、いずれの子孫もいつか死ぬのです。「天国からの使者」で述べたとおり、子供を作らなければ、自然に人類は滅びるのです。
そこに何の悲しみもありません。人類は自然に消滅するのです。もちろん消滅しなくてもいい。ここで述べている通り、生まれてくる子供を天使とみなせばいいのです。
ただし、絶対に人類を消滅させてはならないとは思いません。人間には人類という種の存続よりも重要なことがあります。
「だったら人類の存続よりも優先されることって何だ?」
詳しくは次のコラムで話します。
全体と個人」で述べている通り、人間にとって重要なことは、全体より個(一人一人の人間)が優先されるということです。
社会よりも個人が、国家よりも個人が、世界よりも個人が、全人類より一人が優先されるのです。なぜなら、あなたもこの青山も一人の人間です。一人の人間の集まりである人類(という集団)に意味などないのです。(個々の人間は大切であるが、その全体を括ったものに実体はない) 大切なものは一人一人の人間です。全体に意味はありません。なぜなら世界は「空」だから。
もし個の(もちろん動物としての欲望に基づく、あるいは財産的なものではない)幸せが実現されれば、人類が滅んだっていいじゃないですか?国家が滅んだっていいじゃないですか?個々の人間は死ぬんだから。
「おまえは人類、あるいは国家がどうなってもいいと言うのか?」
そうは言ってませんよ。ただし人類(個々の人間でなく人類という集団)や国家よりも大切なものがあると言っているのです。それが一人一人の人間です。
国家は一人一人の人間のためにあるんです。一人の人間が国家のためにあるのではありません。国家は二義的なものです。根本は一人の人間です。人間が生活していく上で必要だったから”国家”というものを作ったのです。用をたさなければ国家など不要です。
よく、”国にため”と言いますが、それは国民のためというより、国の体制のため。とにかく国の形が残ればいい。国民は国家の体制のために犠牲になってもいい。体制を維持し国を繁栄させるために、外国と戦って勝て。戦争はできなくてもその他のこと、例えば経済でもスポーツでも諸外国に勝って、自国を世界の中で優位に立たせろ。そうすれば諸外国は黙っていても我が国に跪くであろう。その為に国民を急き立てる。まるで国民はボート競技の選手のよう。政府の号令一下、全員(全国民)でそのボートを漕ぐ。冗談じゃない。我々は政治家や役人、あるいは財界人どもの使用人ではないぞ。国のためになんか働くか。国民のためならまだしも、こんな連中(政財界の馬鹿たれども)のために働くくらいなら、国ごと地上から消滅させた方がましだ。国のために一滴の血どころか、髪の毛一本さえ捧げることを拒否する。(補足2)
(青山談) 青山は大勢に徹底的に逆らうことを生き甲斐としています。殺されたって国(の体制)のためになんか働かない。そんなことのために生きているんじゃない。青山はいかなる権威も、いかなる格式も、いかなる身分も認めない。いかなる権力にも屈しない。バカらしくて、下らなくて。(そんなもの歯牙にもかけない。鼻であしらう。ただしお金次第、100京ほどくれれば・・・) もし力をもってこの青山をその権威に跪かせようとする者あれば、何人であってもその場で殺害する!
青山は、国家や法に従って生きているのではありません。ただ己の感情にのみ従っているのです。
個人よりも集団を重視する姿勢は、動物としての本能です。つまり”けだもの的性質”なのです。(動物の利他行為は自然淘汰の産物。詳しくは「生命とは」参照)
「国家が滅んだらみんな困るだろう?」(補足3)
既にこの世に生まれてきた時点で困っています。こんな地獄のような苦しみだけの世界に。
「この世は苦しみだけではない。楽しみだってある」
いいえ。楽しみなんてものは所詮一時的なものです。それはすぐに苦しみに変わります。人間はみなどうせ死ぬんだから、国家が存続しようが滅びようが関係ない。
「おまえは関係なくても、子孫は大変だ」 (補足4)
いいえ、自分の子供もそして孫もいずれ死ぬ。人間は誰であってもいつか必ず死ぬのです。頑張って生き延びようとしてもその努力は報われません。
無論敢て国家を崩壊させたいとは思いません。こうやって青山が「科学概論」を書けるのも、国家体制が安定しているからです。しかし国家がいくら存在していても、この「一切は苦」という根本問題は解決しません。いくら我が国の行政サービスが充実していても、毎日が(誰にとっても)苦しみに満ちていることから言って”焼け石に水”?でしょう。(まあ、そんなことはないでしょうけど)
「おまえは国を愛さないのか?」
いいえ、それとこれとは話が違います。青山としては”こんなこと”のために死にたくはないのです。自分にとってたった一つの(尊くはないかもしれないが)命です。無駄にするわけにはいきません。(補足5)
人間はこの世に生まれてきた以上、”何か”のために死ななければならないのです。(詳細は次コラムで) しかしその何かは、自分にしか決められません。いかなる他人からも指図されない。「自分はこのために死ぬんだ」 そういう気概を持って生きる。それが人間です。
※以下日本を例にとっているわけではありませんが。
ある政治家が「憲法を改正しよう」と主張しています。理由は外国から攻められたとき、現行の憲法では、軍備を持つことが許されないため、太刀打ちできないというもの。そこで憲法を改正して軍備を保持しようというわけです。
賛成派の意見では、憲法を改正しなければ外国の軍隊に侵略されてしまう。よって国家の存続が危ぶまれる。というもの。
反対派の意見では、軍備を持てば外国と交戦して、たくさんの犠牲者が出る。よって国家の存続が危ぶまれる。というもの。
憲法を改正した方が良いのか悪いのか?憲法を改正した。結果的に国は存続した。いや国が滅んだ。憲法を改正しなかった。結果的に国は存続した。いや国が滅んだ。それは後々の結果です。現時点では断定できません。しかしもしこれが国を二分して論争になったとき、あるいは国民の意見が真っ二つに分かれたとき、自分はどっちを選択するのか?
あなたは一人の主体です。誰にも拘束されることなく自由に、自らの意志により選択できるのです。その際何がその道を選ぶ基となるのか?
そうです。それはあなたの”信念”です。もしも、ここであなたの信念が、何よりも平和を愛し、何よりも平和を尊ぶもの。あるいは、戦争に強い憤りを感じ、戦うことを拒否する姿勢を堅持する。であれば、あなたの行動は自ずと決定されると思います。しかしいずれの道を選んでも、あなたは自らの行動に責任を負うのです。それが人間です。
結果はどうなるかわかりません。あなたの行動により、国が滅びるかもしれない。しかしいずれにしても判らない。決定的な判定を下せない以上、判断は自分の”信念”に基づく以外にないのです。結果が重要なのではありません。問題はあなたが人間としてどう行動したか?結果がどうであれ、信念を貫いたなら、あなたは自分の決断に誇りを持っていいと思いますよ。(補足7)

(補足1) 「生き残りたい」、「人類が滅びるのは嫌」という感情は全て動物としての本能すなわち「自然淘汰」を起因とした働きです。この自然淘汰による本能的な働きは、盲目的の欲望であり、仏教でいうところの人間の根本にある「煩悩」(つまり盲目的な欲望)の起源です。

(補足2) まあ、関係ないのかもしれませんが、ここでイエスの言葉が思い出されます。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではない。むしろ争いをもたらすためだ。」(マタイによる福音書)。青山の勝手な解釈ですが、彼の考えが伺えます。即ち安閑と国家や人類の存続なんてものにしがみ付くなと言いたかったのでは?人間にはもっと大事なことかあると。

(補足3) もし突然政府や自治体が無くなったら我々の生活は明らかに困窮するでしょう。それは大変なことです。出来る限りそれを避けるべく速やかに手を打つことです。しかしもしかしたら政府省庁の役人は思い違いをしているかもしれない。例えば税金を扱う財務省の役人。増税して国民に負担を強いるのも、政府の財政赤字を解消するため。引いては国民のための増税だと。そういわんばかり、しかし実は自分たちの生活のためなのかもしれません。別に役人が辞めても誰も困りませんよ。まさか自分たちがいなくなれば国民は皆困るだろうなどとうぬぼれていませんか?我々国民は役人に騙されているのかもしれません。「困るぞ。困るぞ」と脅されて。
もし鉄道や電気水道ガス、それらがなくなれば我々国民はみな生きてはいけない。いいえ、生きていけます。「だったら、お前(青山)は電気水道ガスなしで生活してみろ!」と電気水道ガスの事業者は言うかもしれない。青山は決してそんなことはしません。なぜなら、今は電気水道ガスがあるじゃないですか?遠慮なく使わせてもらいます。(物がそこにあるのに青山一人が、なぜ苦行を強いられなければならないのですか?) ただし、この地球上から一切の電気水道ガスが消えたとしても、まあ生活環境はがらりと変わりますが生きてはいけると思います。なぜなら今から200年前にはそんなものはなかった。でも人々は生きていけたのです。
青山一人が貧乏になることは拒否します。しかし全体が貧乏、世界中が貧乏なら、何も文句は言いません。喜んでつましい生活を送ります。

(補足4) よく、「将来の子供や孫のために、地球の自然を残そう」と言われます。もっともだと思いますが、地球の環境が破壊されて困るのは、確かに子孫も困りますが、一番その報いを受けるのは、環境を破壊した張本人、我々現代人なのです。
我々は地球の支配者でもなんでもない。思い上がりもいいとこだ!我々は地球に対して何一つ責任を負っていない。ただし、我々の子供たちには責任を負っていると思います。

(補足5) 青山個人としては日本の文化をこよなく愛しています。(補足5) ただし、日本人すべてを愛したいとは思わない。(嫌な奴もいるし) スポーツ競技で日本だからといって応援することもない。(知り合いに選手がいれば別)
スポーツに限らず(例えばGDP、貿易黒字で)日本が世界で何位なんて、まったく興味がない。国民は決して一体ではない。国家は家族ではありません。好きな人もいれば、嫌いな人もいる。そんなことは当り前。青山は、国民を統制するような”一体”とか”絆”って言葉が好きません。(共産主義国家じゃないんだから) 個人的にはそこに(若干の)甘えを感じます。大体、日本酒よりもビール、温泉よりもシャワー、相撲よりもサッカーが好きな人間に「国を愛せよ」なんて言われたくない。むろんビール、シャワー、サッカーが好きな日本人がいてもいいと思いますよ。サッカーで日本を応援せず、ブラジルを応援してもいいと思います。結局みな個人の自由ですから。それを強制する奴は許さん!自分が国を愛しているからと言って、他人にもそうさせようとする。周りの賛同を得ないと気が済まない。何と心が狭いんだ。何事もやりたい人間がやれ!遠慮なくやって頂戴。「おれは止めないぜ」。ただし、青山はやらないよ。何事も好き好きですから。

(補足6) まったくの余談ですが、日本の文化を三つ挙げよといわれたら、あくまで(青山の)個人的趣味ですが、「剣書茶」(剣道、書道、茶道)と答えたいと思います。

(補足7) 軍備を所持せず、ただ(対話や外交手段だけで)平和を保とうとすることは”現実的”ではない。とよく言われますが、”現実的でない”って、どういう意味でしょう?
我々にはあるのは、”目の前の現実”だけです。神など存在しません。我々はただこの現実の中で生きていくしかないのです。

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