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本当の幸福とは


 前回、この世は苦しみであり、その苦しみを極力避ける生き方として、この世界が実体のない「空」であることを悟った上で、”清貧的な生き方”をするよう心掛ける事を述べさせていただきました。つまり競争を避け、欲を忘れて、金や名誉を追い求めるのではなく、心を穏やかにして日々ささやかに生きるというものです。
 ただし、それで万事でしょうか?この世に生まれてきたくないのに、生まれてきてしまった。仕方なく「清貧」で生きる。それはあまりにも消極的な感じがします。世俗と関わらずに生きると言ってもまったく関わらないわけにはいきません。もし向こうから関わってきたら、ただひたすら逃げるのですか?下らない挑発は無視すればいいのです。しかし無視できないのなら、逃げの姿勢では駄目です。逆に積極的に関わるのです。関わる相手は隣人です。
我々はみな救われます。この世でもいつか(未来に)救われるし、この世から去っても(死後も)救われます。(「究極の救い」参照) 信じても救われるし、信じなくても救われるのです。しかしそれは将来の話。今自分は何を為すべきか、この問いの答えは、ただ神や仏の救いを待つだけでは得られません。清貧の哲学からは消極的な答えしか出ません。
我々人間は今この瞬間に何を為すべきか?(ただ本能的欲望(食べたい飲みたい金が欲しい有名になりたい)に使役されるだけでは犬や猫と同じです) そして人間は何のために生きるのか?あるいは何のために生まれたのか?
なぜだかわからずに生まれてきてしまった。このような答えでは、この(苦しみの)世で生きていくことは出来ません。例え99パーセント(場合によっては100パーセント)清貧で生きたとしても、残り1パーセントは、あえて苦を避けずに、苦に向かって生きるのです。
では、何のために生きるのか?その答えはもちろん「自分の幸せのため」です。しかし今度は何のためにこの世に生まれてきたのか?と問われたとき、自分の幸せのためと答えることはできません。幸せになりたければ、生まれてこない方が良かったからです。(なぜならこの世は苦だから)
否、わたしは幸せになるために生まれてきた。ただし、それは世俗の(あるいは動物的な)欲望を満足させるためではない。自分にとっての本当の幸せのためである。
もしあなたがそう答えたのなら、では、あなたにとってこの世における本当の自分の幸せとは何ですか?
それは無論清貧的な生き方?かもしれません。しかしそれでは生まれてきた動機が分からない。世界との関わりを避ける。だったら生まれてこない方が遥かに良かったはずです。
あなたが自分の意志ではなく、親によって生まれたくもないのに生まれてきてしまったと言うなら、”清貧”でもいいでしょう。しかしそれは悲しいことです。逆に、もし自らの意志で生まれたというなら、世界あるいは隣人と自発的に関わる。清貧を捨てて積極的に生きる道を選択すべきでしょう。
何のために?
答えはたった一つ。「隣人に対する慈悲」のためです。我々が世界に即ち隣人に働きかける方法は、二つしかない。一つは支配。いま一つは慈悲です。そして自分および相手の主体を損なわずに関わる方法は一つしかない。それがずばり「慈悲」です。
支配は相手の主体性を認めません。相手の主体性を殺すことが支配です。しかし相手の主体性を消すためには、自分は相手の奴隷になるしかないのです。(なぜなら世界は自分の思い通りにはならないから) つまり自分も相手も主体性を殺された形。それが支配です。反対に慈悲は相手の主体性を認めることです。そしてそれは同時に自分の主体性も失うことがない。我々が(ありとあらゆる)隣人に対して行い得るものは慈悲しかないのです。(「慈悲とは 最高の真理」参照) 慈悲のために生き、慈悲のために死ぬ。それが人間です。
この世界は苦です。いくら清貧に生きても、苦を完全に滅することはできません。その苦の原因は、この世界があなただけの世界ではないと言うこと。同じ世界にもう一人隣人がいます。隣人はあなたの思い通りには成ってくれません。はっきり言って隣人は邪魔です。しかしこの世界に存在している限り隣人を消し去ることはできません。即ちあなたにとって一切の苦の原因は隣人が存在することにあるのです。我々は嫌でも隣人と関わらなければならないのです。隣人を消し去ることが出来ない以上、我々は積極的に隣人と関わる。どう関わるか?それが慈悲です。もう慈悲以外には何もありません。我々この世界で生きる意味は、この「慈悲」しかないのです。

 愛はすべての人間がもともと持っているものです。(補足1) 神から与えられた我々の本質とも言うべきものです。そして慈悲はこの愛から生まれるのです。それは人生の1パーセントかもしれません。この世で生きていくことはたった一人の隣人がいるために苦しいのです。この苦を避けるために我々は隣人との関わりを避けるのです。それが清貧です。しかし敢て隣人と関わる。すなわち苦を受けてみましょう。もちろん隣人の幸せのために。無論隣人を愛するが故にです。
人生の1バーセントでいいですから、否、もしかしたら100パーセント?の人もいるかもしれません。
ただし、自ら苦を受けるというのは並大抵ではありません。本当に苦しむのです。それははっきり言えば、この世のありとあらゆる最低最悪の地獄の体験です。しかし隣人のためなら、いかなる苦しみにも耐える。隣人を愛する故、いかなる苦しみも甘んじて受ける。隣人が幸福を得られるのなら、次の瞬間死ぬ覚悟で、そして全世界を敵に回す覚悟で、ただひたすら一人の隣人のためにすべてを費やし、地獄へ赴く覚悟で尽くす。人間の本質(すなわち愛)を発揮するのは今しかない。今この世でやれるべき最大のものはこれです。それがただ一つ(自ら望んで)この世に生まれてきた意味です。(「天国からの使者」、「菩薩としての転生」参照)(補足2)
つまり我々は自ら望んで生まれてきたのです。何のために生まれてきたのか。その明確な答えがここにあります。(補足2) もしかしたら隣人など幻影かもしれません。さらに自分自身も存在しないかもしれない。しかしこの世で生きている上で、そんなことはどうでもいいのです。たとえ幻影であっても、その隣人を命を懸けて愛する。ただひたすら愛しぬく。それがこの世で生きている唯一の目的であり、たった一つの意味です。

 人間はこの世に生まれてきた以上いつかは死ななければなりません。死にたくないといっても駄目です。死は免れません。死が怖ろしいから、逃げ続けていてもいつかは死に捕らえられるのです。常に健康に気を使い長生きしようとしても、いつの日か死は訪れます。
死に向かって」でお話したとおり、どうせ死から逃れられないのであれば、我々は死を恐れず、目の前に死が現れても道を避けずに、どこまでも真っ直ぐに信念を貫いて生きるべきではないでしょうか。いつかは死ぬことが解っているのは人間だけです。他の動物たちは、この死から逃れられると思い込んでいるのです。だから死を必死になって避けようとするのです。そして死を何よりも恐れます。(人間も動物の名残を持ち、死を本能的に恐れる。恐れなければ、今日まで生き残ってはこなかった) いずれ死ぬのが分かっていながら、出来る限り長く生きることに何の価値があるのでしょうか?死を自覚している人間は、むしろ死に向かって生きるべきでしょう。そういう生き方をする人間は何のために生きるのか?生きる目的が明確です。もちろん隣人に対する「慈悲」のためですが。
何のために生きるということは何のために死ぬのと同じ意味です。生きがいと言う言葉と同様、死にがいと言う言葉もあります。目的もなしに死ねば(ただ殺されるだけなら)、その死は無駄になります。死が無駄なら、生も無駄になります。目的もなしに死ぬことは、目的もなしに(ただ本能的な欲望の赴くまま)生きるのと同じことです。つまり本来人間であるなら、この世に生まれてきた以上”何かのために”死ななければならないのです。
答えはすでに出ています。「慈悲」です。
命は一回限りです。下らないことに一生を費やすと死んでも死に切れません。だったら何もやらない方がましです。人間はどう生きようと自由ですが、個人的に言わせてもらえれば、この人間社会で日々競争に明け暮れ、金を儲ける。欲しいものを手に入れる。またはライバルたちとの競争に勝利し、世間から賞賛を得て歴史に名を留める。このような下らない人生を送るくらいなら、前回話した「清貧的生き方」の方が遥かに賢く人間的です。清貧は世界の本質である「空」を悟った生き方だからです。このような欲望の使役は、つまり金儲けや競争は所詮”けだものの本能的欲”(つまり煩悩)。そこに働いているのは(種というものを生き残らせるための、結果的にただそうなっているという無意味な)自然淘汰の原理のみです。ハエやゴキブリよりも劣る?かもれしません。
もし何のために生きるのか?その目的が明確ならば、人は決して欲望に使役されることはない。逆に目的もなく生きることは動物的な本能の命ずるままに生きること。ただの欲望の奴隷(あれが欲しい。これが欲しい。ああしたい。こうしたい。ああなりたい、こうなりたいという欲望の虜)です。欲というものは麻薬と同じで、一度贅沢を味わえば、あるいは一旦高い地位に上がれば、もう下には下がれない。楽を知った者は敢て苦を求めない。どこまでも大きな楽を求める。果てがない。それに伴い苦しみは増す。しかし人間として、この「生きる目的」が明確ならば強い意志によってそのような誘惑を退けられるのです。(イエスのように強い意志を持つこともできる) その意志によって世界を変えることも可能です。目的を持って生きるか生きないか、それは天と地、あるいは人間と犬猫ほども違うのです。
 生も一度なら、当然死も一回限りのものです。生は自分一人のものです。何のために生き、何のために死ぬのか、それは自分が(誰にも指示されることなく自由に)決めることです。自分が意志を持って選択することですから、こんなことのために死にたくないわけです。こんなことのために死ぬなんて、死が(あるいは生が)もったいないと思います。掛け甲斐のないたった一つの生を無駄にすることになります。
この青山だったら、(一億人の馬鹿を喜ばせるよりも)名も知らぬたった一人の隣人(それはホームレスかもしれない。あるいは犬猫かもしれない)のために命を捨てて救いたい。その隣人が本当に幸福になる(いずれ仏陀になる)なら、死んでも構わないと。
反対に人類のため、あるいは国家のためなどに死にたくはない。国家のためといっても、一人一人の国民のためではない。国の体制のためです。国家という形を維持するためです。引いては政治家や役人の利益のため、あるいは財界人の儲けのためです。そんな奴らを喜ばせるためなんかで死にたくないでしょ?たとえ国家が滅びようともそれは真っ平ご免ですね。

 人生の目標は、自分が幸福になることです。この”幸福”を、以前話した「幸福の性質」で示したとおり、”ある現実の観察される状態”とすると、幸福そのものが何なのかわからなくなります。例えば酒を飲んでいる(現実の)状態を幸福としても、それが何で幸福なのかとさらに問われれば、酒が好きだからと言う他ない。それは単なる動物としての(生きるため、あるいは種を生き残らせるための)本能的欲望に他なりません。だから答えられないのです。「飲みたいから飲む」では、答えになっていないでしょう?要するに、何故そうしなければならないのか(この場合は酒を飲む)、その理由を明確にして初めて人間は行動するのです。
本能を否定するのではない。食べたい飲みたいという欲望が(外部から)起こったら、ではどうするかを選択するのが人間です。つまり食べるべきか、食べざるべきか。動物には選択の余地はありません。食べたければ食べる他はないのです。それに対して、人間は○○と言う欲望が起きたが□□のために、食べよう。あるいは今はやめておこう という判断を下すのです。そのための基準は何のために食べるのか、その「理由」のことです。すなわち答えは、「慈悲」のためです。(□□=慈悲)
慈悲を実践するために食べる必要があると判断すれば食べるし、必要がなければ、あるいは返って慈悲に反するなら、(空腹であっても)食べないと判断する。これが人間です。従って幸福の意味も変わってきます。
ここで正しい幸福の意味を述べます。人間にとって幸福とは状態を指すのではなく、”方向”を示すものである。
方向は状態ではないから、その状態に達すればもう幸福にならなくてもいいとはならないのです。状態は一つの段階、中間点であり、幸福への道のりはまだまだ続くのです。それは一生かかっても達成できない。永遠の目標です。これは修行や悟りと同じです。仏陀になれたらもう修行は不要。そんなはずはありません。修行は永遠に続くのです。あるいは一生。これでもう終わりと言う段階がないのです。(「ささやかに生きる」の「最後に」を参照)
しかし、もはやそれを目指していること自体が”仏陀”であり、絶対的解脱の境地なんか生きている間は達成できません。それを目指して修行している今この瞬間が既に「仏陀」なのです。(釈迦も生きている間は達成できなかったであろう「涅槃」の境地を指す) 仏陀とは修行を終えることではない。修行を続けていく姿が仏陀なのです。
幸福も同じです。これで終わりとは行きません。生きている限りですが。元来幸福とは仏陀を目指すことにあります。つまり幸福や仏陀を地図に喩えると、幸福の追求即ち修行とは、地図のある場所を目指すのではなく、ただ無限に続く決まった(一貫した不動の)方向をただひたすら進むものなのです。ここで誤解してはいけないこと。幸福とは単なる動物としての欲望を満たすことではない。それも生きている限りなくならない。だから永遠に消えることがない欲望を満たすことを”幸福”だと勘違いしないで下さい。幸福は次々に現れる欲望を永遠に追い続けることではなく、一貫した不動の「方向」です。(図95「幸福とは何か」参照)
では、その”方向”はどのように示されるのでしょうか?もはやお分かりだと思います。答えは「慈悲」です。慈悲はもちろん固定された一つの状態ではありません。それは永遠に目指すべきもの。つまり方向なのです。
では具体的に何を実践するのか?それはあなたが決めることです。世界に方向性がない以上、あなたの生き方はあなたが決めるのです。何にも制約されずに自由に決めていいのです。なぜなら世界は「空」だから。(ただし、決めるにあたって現実(自分以外)をよく観察する必要があります)
その空の世界でただ一つ意味を持つもの、それが自分の生き方であり、向かうべき方向であり、すなわちそれは「慈悲」しかないのです。(補足2)

結局、幸福とは何か?
 人間にとって最終的に目指すべき幸福な状態。それは生きているうちは達成できないものである。もし達成できてしまったら、その時点で人生は終わりである。しかし絶対に達成不可能なら、そのような状態を目標にすること自体無意味である。
要するに、幸福とは目指すべき”状態”ではなく、目指すべき”方向”である。一つの状態は、一つの中間段階であり、まだまだ上の段階が存在する。生きている限り幸福追求、それが終了するわけではない。(図95「幸福とは何か」参照)

世界を変えるために生まれてきた
 結論として人間は何のために生きているのか?答え、幸福になるためです。では、幸福とは何でしょう。もちろん金や名誉ではない。そんなものゴミでしかない。人間にとってもっと重要な幸福の意味があります。ところで、幸福とは状態ではなく、「方向」でした。何を基準にその方向を定めるのか?それは慈悲以外にはありません。この慈悲こそは、全人類、この世界のすべての衆生に普遍的なものです。(補足3)
世間では”人類普遍”の幸福などないという人がいます。幸福は人それぞれ違うというわけです。確かに幸福が状態ならその通り。しかし「方向」とみなせば、人類普遍、宇宙共通の幸福(の方向)は存在します。それが隣人に対する慈悲です。慈悲こそは誰もが目指すべき、人類共通、否、宇宙でただ一つの幸福の形(状態ではなく、向かうべき方向、目的あるいは姿勢)と言っていいものです。
ただし、実際の手段は人それぞれ考え方の違い、立場立場で異なるでしょう。どのように隣人に働きかければ、その相手が幸福になれるのか?それは現実に働きかけることであるから、もし有効にそれを行いたい。結果を出したいのなら、現実の性質をよく理解した上で事をなさなければ、効果は得られないでしょう。すなわち宇宙の法則を知ることです。それが科学です。即ち隣人に働きかけを行う上で必須なのは科学です。科学を学ばずして人を幸福にはできません。
さて、隣人への働きかけとは、世界に対する作用です。その作用が大きいか小さいかに関わらず、世界はあなたの働きかけによって変わります。(有効に変えたいなら、宇宙の原理を学ぶこと、すなわち科学を実践すること)
もしあなたが社会の矛盾を感じたなら、この世界は理不尽だ、不条理と思えるなら、一生を懸けてこの社会を自分自身で変えることだ。世間体にとらわれることなく、人々の評価など考慮せず、安穏な生活、将来の安心など捨てて、ただひたすら社会を変えることに努める。その為には死んでもいい。人間はいずれ死ぬ。生き残ろうなんて思うな。それは犬や猫と同じ。何が何でも社会を変えてみせる。それがあなたの人生です。それが人間としての選択です。
人間にとって生きるということは、即ち隣人に働きかけを行うことを指し、つまり生きているということは世界を変えることなのです。無論目的もなしにただ変えるのではなく、あなたは自分の意志に従って、そして明確な目的(隣人に対する慈悲)をもって世界を変えるのです。(さらに科学を用いること)
世界は自然法則に従っています。もしあなたが自然法則(すなわち科学)を理解しているなら、世界に対してどう作用を施せば、世界がどう変わるかを知っているはずです。それによってあなたは世界を望む方向に変えるのです。もちろん隣人の幸せのためにです。世界はあなたによって変えられる。あなたがこの世に生まれた理由がここにあります。
そうです。この世界を変えるのです。世界はあなたに変えてもらうのを待っているのです。世界はあなたに変えられるためだけに存在しているのです。この世界を変えずしてあなたがこの世に生まれてきた意味などありません。そのためにあなたは、自ら望んでこの地獄の世界に生まれてきたのです。あなたは何のために世界を変えるのでしょうか?もちろん慈悲のためです。(即ち、地上を天国に変えるため(「天国からの使者」参照)) 一人の隣人のためです。その人のためならどんなに苦しい目に遭っても構わない。地獄のような苦しみにも耐えてみせる。神に戦いを挑む覚悟で、ひたすら、ただひたすら、その人の幸せのために。
無論世界を変えるのはそう簡単ではありません。当然命を捨てる覚悟が必要です。そうまでしてなぜあなたは世界を変えるのでしょうか?
隣人を幸福にしたい。ただ一途なその心があなたに世界を変えさせるのです。その情熱さえあれば、世界を変えることも絶対に不可能ではない。あなたは何も恐れる必要はない。どんな苦しみにも耐えていける。その最高の勇気と忍耐を持てば、世界を変えることは可能です。あなたは世界を変えるために生まれてきた。あなたがこの世界を変えないで、いったい誰が変えるというのでしょうか?
もしもあなたが人を愛するならば、それがどれほど苦しい事かを知るでしょう。それでもあなたはその人を愛するでしょう。愛はこの世界の本質である「空」を超えたころにあるのです。(そもそも空(執着を捨てる)と愛(敢て執着する)は相反するものです) 慈悲は煩悩(生き残りたいという動物としての本能=自然淘汰の働き)を超えたところに存在します。
例え地獄へ落ちたとしても、その人を救いたい。この苦しみの世にあってあなたは、この「慈悲」を発揮するために敢て最大の苦を選択したのです。なぜなら、あなたはたった一人の隣人を愛するため生まれてきたのだから。

この青山の決意もあなたと同様です。何が何でも世界を変えたい。命に代えても根底から世界をひっくり返してやりたい。神を脅迫してでも、世界を変えてみせる。無論神はこの青山など恐れはしないが。

今この瞬間がすべて
 自分とは何か?自分とは認識の主体であり、世界に働きかける作用の主体。つまり自分の本性は「意識」にあるのです。身体ではありません。(「死と真の世界 涅槃と仮の世」参照) もしも自分が意識であるなら、今現在しか存在していないことになります。過去の自分も未来の自分も存在しません。自分とは時間の中で続いているものではないのです。(そこを「霊魂」などを肯定する人たちは誤解しているのです) もしも自分が現在しかなければ、過去(の実績)も未来(の期待)も関係ありません。今この瞬間がすべてです。従って今自分は何をなすべきかだけが問われるのです。
この問い、何のために生きるのか?自分にとって真の幸福とは何か?そしてどうすればそれが得られるのか?その課題はあなたがこの世で生きている限り問われ続けるのです。
つまりあなたが、今生きているのか?死んでいるのか?この世に存在しているのか?していないのか?存在していないのなら、この「今自分は何をなすべきか?」について問われることはありません。ただし、例え今から1秒後に死ぬ。次の瞬間死が訪れようとも、今現在この瞬間生きているのなら、「この世界で何をなすべきか」は、常に問われるあなた自身の課題なのです。その課題に答えてこそ、真の人間といえる。と思います。

自分の幸せは自分でつかむ
 幸せは待っていても得られるものではありません。世界は何一つしてくれない。国家があなたを幸せにしてくれるわけではありません。社会に期待しても無駄です。政治がいったい何をしてくれるというのでしょうか?あなた自身が行動を起こさない限り何も起こりません。あなたが行動して初めて、あなたは幸福を手にするのです。そしてあなたの幸福とは隣人の幸せです。

命を懸けて日々を生きる
 隣人を幸せにする。世界を変える。そう決意したなら、後はそれに向かって日々全力で生きるのです。一瞬一瞬に命を懸ける。日常全てに命を懸ける。命を懸けて新聞を読む。命を懸けてテレビを視る。命を懸けて食事を取る。命を懸けて風呂に入る。命を懸けて睡眠を取る。そして青山は命を懸けてこの「科学概論」を書いています。

(補足1) 目の前の人あるいは衆生を見て、「可哀想だ」と思う気持ちは誰にでもあります。なぜでしょう。この世に生まれてきたからです。もしこの世界に、一人の愛の人(例えばイエス=キリストのような人)が現に存在しているなら、この世界はその人の影響(因縁)を受けます。(と言うより、世界がイエス=キリストを生んだのです。つまり世界にはもともと愛がその根底に存在していた) するとこの世界に現に存在している我々にもその愛を受ける(因縁を持つ)ことができるのです。それは即ち生きている人間には本来愛の性質が備わっているという証拠です。

(補足2) 方向しかなく、その段階の基準もない。一つの道を皆が向かっているわけではない。従って順位もない。人間の優劣も存在しない。

(補足3) 自分は何のために生まれてきたのかという問いに対して、「幸せになるため」というのはおかしな回答です。なぜなら幸せになりたいなら、生まれて来ない方が遥かに幸せだからです。この世はさまに地獄です。しかし、もし「慈悲」のためと言うなら、それは正しい回答です。そうです。あなたにとって幸せとは「隣人に対する慈悲」のことなのです。

最後に
 人間は、それがどんな結果になろうとも、その運命を無条件で受け入れるしかないのです。それは現実を偽らないこと。即ち科学の姿勢です。例えば自分が、治療方がない恐ろしい難病に襲われた。余命わずかだと宣告された。そこで「何んで自分がこんな目に遭うのか!」。そう運命を嘆いても始まりません。事実は事実。それを受け入れるしかないのです。
しかし、ただ黙っているだけではない。怒るべきところは怒る。主張すべきところは堂々と主張する。ただし、その怒りには、「慈悲」の心がなければ駄目です。

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